クリンでのチャイコフスキーとは? わかりやすく解説

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クリンでのチャイコフスキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/02 04:47 UTC 版)

チャイコフスキーの家博物館」の記事における「クリンでのチャイコフスキー」の解説

1885年チャイコフスキー彼の友人パトロン宛てて次のように書き送っている。「近頃、私はモスクワからそう遠くない落ち着くことを夢見てます。これ以上彷徨うことはできません、くつろげる場所にたどり着きその場所に留まりたいと心から願っているのです。」同年はじめに彼はクリンから2キロメートルのマイダノヴォ(Майданово)という小さなに、つつましい家を借りることにしている。その後1888年から1891年にかけては近隣別の、フロロフスコエ(Фроловское)での借家住まいであったチャイコフスキーがマイダノヴォの家に暮らしたのは1885年2月から1888年3月までの期間である。その家屋セストラ川の岸に建ち複数の池を持ちシナノキ古木生える広い庭があったが、そこには生い茂っていた。その場所はモスクワサンクトペテルブルク行き列車が出る鉄道駅からは遠くなかったものの、市街地からの距離は望まない客人寄せ付けないには十分であり、そうした人々煩わされずに済んだのである。マイダノヴォの家で彼は1874年作曲した古いオペラ鍛冶屋のヴァクーラ』の改訂取り掛かり、これを新たなオペラチェレヴィチキ』へと作り変えている。他にもマンフレッド交響曲オペラチャロデイカ』が書かれた。チャイコフスキー午後になると雑誌書籍読みピアノ弾き客人会話交わし散策しキノコを採り、庭いじりをし、泳いだチャイコフスキーにとって不運だったのはマイダノヴォを訪れ行楽客の増加に伴い彼に会いたがる人の人数増えてきたことだった。3か月ヨーロッパへ演奏旅行終えた彼は同じ地方、フロロフスコエのにある別の家に移ることを決意したその後1892年に弟のアナトーリへこう綴っている。「私はクリンに住むため家を借りました見たことがあるんじゃなでしょうか、サハロフス(Sakharovs)の家、大きくて快適、町外れにありモスクワへ交通の便良い中略郊外もしくはほとんど同じですが、クリンに家を持たねばなりません - そう感じてます。仕事をするのに落ち着いた静かな場所が、いつでも望むときに確かに得られるようにするためです。加えて、私はクリンに慣れてしまいました家の中からの眺めは実に素晴らしい、相当な大きさの庭があるのです。将来この家を買い取ることも考えてます。」 クリンの家に住む間にチャイコフスキーは『イオランタ』と『くるみ割り人形』の総譜校正完了し18ピアノ小品 作品72四重唱『夜』、『D.M.ラートガウスの詞による6つの歌作品73、そして交響曲第6番書いている。 1893年10月3日ピアノ協奏曲第3番完成したチャイコフスキー同月7日モスクワへ向けてクリンを発ち続いて交響曲第6番初演指揮すべくサンクトペテルブルクへ向かったそのままサンクトペテルブルクにて10月25日新暦11月6日)に53歳帰らぬ人となった

※この「クリンでのチャイコフスキー」の解説は、「チャイコフスキーの家博物館」の解説の一部です。
「クリンでのチャイコフスキー」を含む「チャイコフスキーの家博物館」の記事については、「チャイコフスキーの家博物館」の概要を参照ください。

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