クリンでのチャイコフスキー
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「チャイコフスキーの家博物館」の記事における「クリンでのチャイコフスキー」の解説
1885年にチャイコフスキーは彼の友人、パトロンに宛てて次のように書き送っている。「近頃、私はモスクワからそう遠くない村に落ち着くことを夢見ています。これ以上彷徨うことはできません、くつろげる場所にたどり着き、その場所に留まりたいと心から願っているのです。」同年のはじめに彼はクリンから2キロメートルのマイダノヴォ(Майданово)という小さな村に、つつましい家を借りることにしている。その後、1888年から1891年にかけては近隣の別の村、フロロフスコエ(Фроловское)での借家住まいであった。チャイコフスキーがマイダノヴォの家に暮らしたのは1885年2月から1888年3月までの期間である。その家屋はセストラ川の岸に建ち、複数の池を持ちシナノキの古木が生える広い庭があったが、そこには草が生い茂っていた。その場所はモスクワやサンクトペテルブルク行きの列車が出る鉄道駅からは遠くなかったものの、市街地からの距離は望まない客人を寄せ付けないには十分であり、そうした人々に煩わされずに済んだのである。マイダノヴォの家で彼は1874年に作曲した古いオペラ『鍛冶屋のヴァクーラ』の改訂に取り掛かり、これを新たなオペラ『チェレヴィチキ』へと作り変えている。他にもマンフレッド交響曲やオペラ『チャロデイカ』が書かれた。チャイコフスキーは午後になると雑誌や書籍を読み、ピアノを弾き、客人と会話を交わし、森を散策し、キノコを採り、庭いじりをし、泳いだ。 チャイコフスキーにとって不運だったのはマイダノヴォを訪れる行楽客の増加に伴い、彼に会いたがる人の人数も増えてきたことだった。3か月のヨーロッパへの演奏旅行を終えた彼は同じ地方、フロロフスコエの村にある別の家に移ることを決意した。その後、1892年に弟のアナトーリへこう綴っている。「私はクリンに住むため家を借りました。見たことがあるんじゃないでしょうか、サハロフス(Sakharovs)の家、大きくて快適、町外れにありモスクワへの交通の便も良い(中略)郊外、もしくはほとんど同じですが、クリンに家を持たねばなりません - そう感じています。仕事をするのに落ち着いた静かな場所が、いつでも望むときに確かに得られるようにするためです。加えて、私はクリンに慣れてしまいました。家の中からの眺めは実に素晴らしい、相当な大きさの庭があるのです。将来この家を買い取ることも考えています。」 クリンの家に住む間にチャイコフスキーは『イオランタ』と『くるみ割り人形』の総譜の校正を完了し、18のピアノ小品 作品72、四重唱『夜』、『D.M.ラートガウスの詞による6つの歌』 作品73、そして交響曲第6番を書いている。 1893年10月3日にピアノ協奏曲第3番を完成したチャイコフスキーは同月7日にモスクワへ向けてクリンを発ち、続いて交響曲第6番の初演を指揮すべくサンクトペテルブルクへと向かった。そのままサンクトペテルブルクにて10月25日(新暦11月6日)に53歳で帰らぬ人となった。
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