カーライル・インディアン工業学校
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「インディアン寄宿学校」の記事における「カーライル・インディアン工業学校」の解説
「カーライル・インディアン工業学校」は、対大平原部族戦に従事した軍人、リチャード・ヘンリー・プラット少尉の、内務省の出先機関BIAへの働きかけで、元軍事施設を利用して、1884年にペンシルベニア州カーライルに創設された「インディアン寄宿学校」の第一号である。 1875年、カイオワ族、コマンチ族、シャイアン族、アラパホー族他の対白人抵抗戦の指導者・戦士たちはフロリダ州のセントオーガスティンにあったマリオン砦に護送され、無期拘留の囚人となった。ここで死んでいくインディアンたちを見たプラット少尉は、彼らを牢から出し、英語の読み書きを教え、パン職人、水夫、漁夫、農夫などとして職業訓練を行い、三年後には、彼らが白人の生活に順応できるようになったとして釈放させた。この経験を元に、プラットはインディアンを子供の段階から一般の農夫や労働者に同化しうる「生産的なアメリカ市民」として育てるべく、以下の理念でもって、カーライル校の初代校長となった。 「インディアン問題の根本的な解決は、教育にある。子供のうちからインディアンとしての自覚、民族性全てを剥ぎ取って、アメリカ市民に同化させる。彼らを職業訓練し、産業化思考を教え込むべきである」 BIAは、このプラットの思いつきに賛同し、拘置所が元となったカーライル校をモデルに、全米各州にインディアン寄宿学校が設けられた。1887年、BIA局長は以下の通達を出した。 「インディアン寄宿学校は英語のみにて教育を施すべし。インディアン語は一切を禁ず。インディアン児童は、キリスト教各派の教えにより文明の何たるかを学ぶべし。インディアンの宗教は一切を禁ずる」 プラットの掲げた「生産的なアメリカ市民」という美辞麗句の裏には、「義務」の強制と同時に「権利」の剥奪をも伴っていることに留意すべきである。かつてインディアン側が白人子女をさらい、部族員として教育した例は多いが、これはほとんど例外なく米国陸軍の派遣によって奪還された。異民族間で行われたこの施策であるが、あくまで白人側からの一方的な図式で成り立ったものであった。
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