カンボジアへの派遣
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1296年、元の成宗(テムル)が正式な使節団をクメール朝に送ったとき、周はその一員となった。ただし、中国の公式記録には彼の名への言及はない。1296年2月20日、周は、現代の寧波市にあたる浙江省明州を出帆し、羅針盤を備えた船で福州、広州、泉州(刺桐)、海南島、七洲洋(中国語版)、交趾(現在のベトナム)沿岸を経て、占城と呼ばれていたチャンパ王国(現在のクイニョン)にたどり着いた。そこから再び出帆した船は、ゼンプ(現在のベトナム南部のバリア)を経て、コンダオ諸島を通り、そこから北へ進んでメコン川を遡行してトンレサップ川に入り、カンボジアの町カンポン・チュナン(英語版)に達し、そこで小さな船に乗り換え、さらに12日トンレサップ湖を遡行して、カンボジアの首都であったヤショダラプラ(英語版)(アンコール・トム)に8月に到着した。 外交史節の一員として、周は王宮も訪れたが、内廷には入っていない。周は宮殿や寺院の様子を記述し、都の内外の建物についても言及を残した。周は、パレードや儀式を観察しただけでなく、人々の日常生活についても記述を残し、また、都を出て、田舎にも足を伸ばした。周は、カンボジア滞在中の大部分の間、アンコール・トムの北門に近い家に住んでいた。 カンボジアに11ヶ月滞在した周は、1297年7月に帰路に着いた。帰国後、15年以内に『真臘風土記』を書いたとされるが、この著書が完成した正確な年次は分かっていない。帰国後の周の生涯については、ほとんど何も知られていないが、1350年代までは存命であったと考えられている。
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