カンボジアへの派遣とは? わかりやすく解説

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カンボジアへの派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:24 UTC 版)

周達観」の記事における「カンボジアへの派遣」の解説

1296年、元の成宗テムル)が正式な使節団クメール朝に送ったとき、周はその一員となった。ただし、中国公式記録には彼の名への言及はない。1296年2月20日、周は、現代寧波市にあたる浙江省明州出帆し羅針盤備えた船で福州広州泉州(刺)、海南島、七洲洋(中国語版)、交趾現在のベトナム沿岸経て占城呼ばれていたチャンパ王国現在のクイニョンにたどり着いた。そこから再び出帆した船は、ゼンプ現在のベトナム南部バリア)を経てコンダオ諸島通り、そこから北へ進んでメコン川遡行してトンレサップ川に入りカンボジアの町カンポン・チュナン(英語版)に達し、そこで小さな船に乗り換え、さらに12日トンレサップ湖遡行して、カンボジア首都であったヤショダラプラ(英語版)(アンコール・トム)に8月到着した外交史節の一員として、周は王宮訪れたが、内廷には入っていない。周は宮殿寺院様子記述し、都の内外建物について言及残した。周は、パレード儀式観察しただけでなく、人々日常生活についても記述残しまた、都を出て田舎にも足を伸ばした。周は、カンボジア滞在中の大部分の間、アンコール・トム北門に近い家に住んでいた。 カンボジア11ヶ月滞在した周は、1297年7月帰路着いた帰国後、15年以内に『真臘風土記』を書いたとされるが、この著書完成した正確な年次分かっていない。帰国後の周の生涯については、ほとんど何も知られていないが、1350年代までは存命であった考えられている。

※この「カンボジアへの派遣」の解説は、「周達観」の解説の一部です。
「カンボジアへの派遣」を含む「周達観」の記事については、「周達観」の概要を参照ください。

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