カロカガティア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 18:14 UTC 版)
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}古代において、価値領域の自律は自明のことではなく、むしろ各価値領域の共通性が追求される事が普通であった。語源的に「美しい」を表す言葉はしばしば「良い」と共通し、現代でも多くの言語において「美しい」を示す言葉は、日常語においてはしばしば「良い」「快い」を含意して使われる。全体にこのような価値連関において、美は善と関連付けられることが多く、道徳的なものがもつよさのひとつとして考えられる[要出典]。 西洋哲学が始まったギリシアにおいてもこの事情は同様である。「美しい人」(ho kalos)は容姿の美しさよりも、その社会的地位、能力、うまれのよさを指すことばであり、「美しい人」とはポリスの市民としての倫理規範を体現した「見事な人」であった。 こうした「美」の極めて倫理的な色彩をよく表す概念が「善美」(kalokagathia カロカガティア)である。善を表す語と美を表す語から造語されたこの語は、ギリシア的人間が実現すべき理想像として提示されている[要出典]。 ヘーシオドスによるパンドーラーの神話では、この女性の容姿は女神のように美しく、心は犬のように陋劣で、そのために世に災悪(kakia)が満ちあふれた(『仕事と日々』)。すなわち、美が感覚的に快である程度ならば、善(agathon)にでなく罪悪、災悪に結びつく可能性があると考えられるので、最初は美は徳から遠いものとしていわばカロカカキアが一般に認められていた 。しかし容姿でなく徳の美、精神の美を認める場合がある(「汚れも咎もなく死ぬことこそ美しい」(アイスキュロス『テーバイ攻めの七将』1011))。仮にこの、徳(arete)としての美をプラトンのように根拠づけ得るならば、美(kalon)と善(agathon)とはひとつになり、カロカガティア(kalokagathia)なる理念が成立すると考えられたのである。ただし、この語は、クセノポーンに由来し、プラトンにおいてはkalos kagathosなる慣用句が多用されている。
※この「カロカガティア」の解説は、「美」の解説の一部です。
「カロカガティア」を含む「美」の記事については、「美」の概要を参照ください。
- カロカガティアのページへのリンク