カフカの友人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 00:49 UTC 版)
「マックス・ブロート」の記事における「カフカの友人として」の解説
ブロートがカフカと出会ったのは両者がプラハ大学に在籍していた1902年であり、このときブロートが学生組織の主催でショーペンハウアーについて講演を行い、カフカが講演内容に反駁したのが最初の交流であった。以後次第に親しくなり、ブロートは友人の文筆家などにカフカを紹介して、首都プラハの文壇に引き入れる役割を担った。両者は1908年から1912年にかけ、もっとも親しく交流し、この間毎日のように会い、また連れ立ってイタリアなどへ旅行した。として全くの無名作家だったカフカの作品を出版社に紹介したのもブロートであった。 1924年にカフカが結核の悪化により31才で亡くなり、ブロートはカフカの遺稿の管理人となった。カフカ自身は遺言ですべての遺稿を焼却するようにとブロートに頼んでいたが、ブロートは自己の信念に従い、生前未発表であった長編『審判』、『城』、『アメリカ(失踪者)』を始めとするカフカの遺稿を次々と公刊していった。1935年から「カフカ全集」の編集・刊行(日本語版は新潮社・全12巻)を手がけ、1937年には初のカフカの伝記を発表した。 ブロートによるカフカの遺稿の編集・刊行や伝記は、カフカの国際的な受容に大きく貢献したが、これらにはシオニストの立場からカフカをユダヤ教的な聖人と見なしたブロートの解釈が反映されており、半世紀以上を経て進展したカフカ研究では、批判的な見解も出されている。
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