オケオと扶南
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 23:12 UTC 版)
「扶南国」も参照 オケオは、メコンデルタで紀元1世紀から6世紀に存在した歴史上の王国である扶南に属していたと考えられる。扶南については、旅行者や外交官の証言、朝貢使節の記録に基づき正史を編纂した、古代中国の多くの史家たちの記録によって知られている。 扶南は中国史にその名を残しているが、ベトナムやカンボジアの古文書には「扶南」の名は見られない。しかし漢文史料によって、中国人によって扶南と呼ばれた国が、メコンデルタにおける支配的な政体であったと判断できる。その結果、この地域で発見されるこの時代の遺物は歴史上の扶南のものと認識され、オケオとその関連遺跡での発掘品は扶南の存在を示す重要な情報源となっている。 ベトナムの考古学者・歴史学者であるハー・ヴァン・タンは、宝石や印章などのオケオの典型的な出土品は単純に交流や貿易の結果であり、メコンデルタのそれぞれの地域がこの後に独立した文化を発展させていく兆候を示しているのに過ぎず、メコンデルタからチャオプラヤーデルタを越え、ビルマまで広がった扶南文化の存在をこれによって実証することは不可能だとしている。また、カンボジアの記録において扶南と名付けられた王国に関する記述が完全に欠けているという視点から、碑文に残るAninditapura、Bhavapura、Shresthapura、Vyadhapuraといった、古代クメール領域の地理の記憶を伝える名前を採用し、「扶南」の名は使わないようにすべきだというクロード・ジャック(Claude Jacques)の観点 も支持している。 新石器時代後期から金属器時代初期に、オケオは徐々にメコンデルタの経済と文化の中心になってゆき、また東南アジアの航路上の重要な位置を占めることによって職人や交易人の集まる場所となり、インドのような外部文化の影響が十分な都市化を促したとも、ハー・ヴァン・タンは論じている。 また扶南は、インド人たちが「スヴァルナブーミ(英語版)」(黄金の野原)と呼んだ東南アジアの地域の最初の現れであった可能性がある。
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