エティエンヌ=フランソワ・ル・トゥルヌールとは? わかりやすく解説

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エティエンヌ=フランソワ・ル・トゥルヌール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/14 16:57 UTC 版)

ル・トゥルヌールの肖像画、ジャン=バティスト・フランソワ・デゾリア英語版作、1796年。

エティエンヌ=フランソワ=ルイ=オノレ・ル・トゥルヌールフランス語: Étienne-François-Louis-Honoré Le Tourneur1751年3月15日 - 1817年10月4日)は、フランス革命期の政治家。総裁政府の総裁(在任:1795年11月1日 - 1797年5月20日)を務めた。

生涯

エティエンヌ=フランソワ・ル・トゥルヌール、ヤン・ダルゲン英語版作。

ル・トゥルヌールは1751年、ノルマンディー県グランヴィルで生まれる。軍人であったが、1791年以降立法議会の議員も務め、その後継の国民公会でも続投した。国民公会では戦争委員会フランス語版の委員になり、アメリカ人連隊の設立などに関わった。1793年に行われた元フランス王ルイ16世の処遇を決める投票では死刑に賛成した[1]

その傍ら、ル・トゥルヌールは将校としてラザール・カルノーとともに働き、1793年から1795年までトゥーロンで軍役に就き、その後フランスの地中海艦隊を再編した。総裁政府が成立したとき、総裁に就任したが、1797年に退任した。後にフリュクティドール18日のクーデターが起こった時、カルノーとの関係が仇となり、ル・トゥルヌールは軍務から手を引くことを余儀なくされた。ブリュメール18日のクーデターを経て成立した統領政府では第一統領のナポレオン・ボナパルトによりロワール=アトランティック県知事に任命された。フランス第一帝政が成立すると、代わりにフランス会計検査院英語版院長に任命された[1]

フランス復古王政では王殺しの罪(ルイ16世の処刑に賛成した)により1816年にフランスから追放され、ベルギーへ移ったが、翌年ブリュッセル近くのラーケンで死去した[1]

脚注

  1. ^ a b c « Etienne, Louis, François, Honoré Letourneur », dans Robert et Cougny, Dictionnaire des parlementaires français,‎ [détail de l’édition] [texte sur Sycomore]



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