エジプト滞在時期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:10 UTC 版)
「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の記事における「エジプト滞在時期」の解説
20年頃、セネカは大病を患って、一時期は自殺も考えたとされる。やがて症状は小康状態に戻ったが依然として不安定であったため、本格的な療養も兼ねて、25年頃に母ヘルウィアの妹の夫にあたり、当時アエギュプトゥス総督であったガイウス・ガレリウスを頼ってエジプトへ向かった。 セネカは当時のローマ帝国の学問の中心都市の一つであったアレクサンドリアでユダヤ人の古典や古代エジプト時代から受継がれる思想を学んだ。また、ナイル川を上って上エジプトやイシス神殿を訪れた。これらの経験を元にしてセネカは「エジプトの地理と宗教典礼について」という書物を記し(既に散逸)、セネカの後の政治的な視野を広げることに繋がることとなる。また、当時、ユダヤ人共同体(ディアスポラ)の指導グループに属したアレクサンドリアのフィロンと接点を持った可能性もある。 31年、ガレリウスのアエギュプトゥス総督としての任期が終了し、ローマへ帰還するのに合わせてセネカもローマへの帰路に着く。なお、ガレリウスはローマへ着く前に船の上で病没したため、セネカはガレリウスの妻で自身の叔母の支援を受けた。セネカにとって最初の任官でかつクルスス・ホノルムに該当する政務官職となったクァエストル(財務官)への就任時期は33年から35年頃と考えられている。クァエストルの任期を終えたセネカは元老院議員となり、その弁論術と哲学者としての知名度により元老院内での存在感を示していった。
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