ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:52 UTC 版)
「クロムウェルのアイルランド侵略」の記事における「ウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン」の解説
詳細は「ウェックスフォードの略奪」および「ウォーターフォード包囲戦」を参照 ニューモデル軍はウェックスフォード、ウォーターフォード、そしてダンカノン(英語版)の港を確保するために進軍した。ウェックスフォードはもう1つのいまわしい残虐行為(ウェックスフォードの略奪(英語版))があった都市である。10月に議会軍はウェックスフォードを包囲、降伏交渉が進行している最中に議会軍は町に侵入して略奪をはたらき、2000人の兵士と1500人の市民を殺害、町の多くを焼き払ったのである。 ウェックスフォードの略奪におけるクロムウェルの責任については意見が分かれている。彼は町への攻撃を命じておらず、軍が町に突入した時は降伏を協議している時であった。一方でクロムウェルを批判する人は、彼が軍を止める努力をほぼしておらず、事後にも罰をほとんど与えなかった点を指摘している。 おそらく、ウェックスフォードの略奪は議会派にとってはややマイナスであったと考えられる。町を破壊することは議会派がその港を使用できなくなることを意味しており、アイルランドに軍隊を派遣するための基地にできないということであった。第2に、ドロヘダとウェックスフォードにおける厳しい処置の結果はいっしょくたにされていた。また、将来的な抵抗を阻むという点ではある程度効果的であったかもしれない。国王派の指揮官であるオーモンド侯は、クロムウェル軍の恐ろしさによって自軍が麻痺していると考えていた。その後、ニュー・ロス(英語版)、カーロー(英語版)やキルケニーといった町や都市はクロムウェル軍によって包囲されると、協議に従って降伏している。 一方で、ドロヘダやウェックスフォードの守備隊に対する大虐殺は、たとえ降伏しても殺されるとアイルランド人カトリック教徒に信じ込ませてしまったため、他の場所での抵抗を長引かせることになった。ウォーターフォード、ダンカノン、クロンメル(英語版)、リムリックそしてゴールウェイといった都市は断固とした抵抗の後降伏した。クロムウェルはウォーターフォードもダンカノンも抜くことができなかったため、ニューモデル軍は冬期用の営舎へ退かねばならず、そこで兵士に多数の病死者 (主に腸チフスと赤痢) が出た。結局、ウォーターフォードとダンカノンは長い包囲戦(ウォーターフォード包囲戦(英語版))の末翌1650年に降伏した。
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