ウェザー・リポート時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 05:33 UTC 版)
「ミロスラフ・ヴィトウス」の記事における「ウェザー・リポート時代」の解説
1970年に新バンドの結成をウェイン・ショーターに持ち掛けるが、ショーターはかねてよりジョー・ザヴィヌルとの間でニュー・グループの構想を練っており、それに加わる形となり「ウェザー・リポート」が誕生。エレクトリック・ジャズバンドのビッグネームとして大きな話題を集めた。 しかし集団即興重視の演奏に変わりジョー・ザヴィヌルがファンキーな要素を入れる為に、エレクトリック・ベースに持ち替えファンク・ビートを演奏するようヴィトウスに要求するようになり、音楽性の違いから次第にふたりの仲が険悪なものとなっていく。 1973年発表の4枚目のアルバム『スウィートナイター』では実際にもうひとりのベーシストとしてアンドリュー・ホワイトを起用するなど両者の間の溝が顕著となり、次の1974年発表『ミステリアス・トラヴェラー』を最後にバンドを追われる形で脱退する。これを受けてヴィトウスはバンド名の「ウェザー・リポート」使用のロイヤリティーを求めての提訴を起こした。こうしたこともあって、ザヴィヌルとヴィトウスの関係は現在も犬猿の仲のようで、ザヴィヌルはインタビューなど、事あるごとにヴィトウスを批判する発言を残している。
※この「ウェザー・リポート時代」の解説は、「ミロスラフ・ヴィトウス」の解説の一部です。
「ウェザー・リポート時代」を含む「ミロスラフ・ヴィトウス」の記事については、「ミロスラフ・ヴィトウス」の概要を参照ください。
ウェザー・リポート時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 03:42 UTC 版)
「ジャコ・パストリアス」の記事における「ウェザー・リポート時代」の解説
フロリダにウェザー・リポートのツアーで訪れていたジョー・ザヴィヌルに自分のデモ・テープを渡すなど、ジャコはベーシストとしてバンドに参加したい旨を直接ザヴィヌルへ伝えていた。丁度その頃には2代目のベーシスト、アルフォンソ・ジョンソンが脱退する予定であったため、1975年12月から1976年1月にかけての『ブラック・マーケット』のレコーディング・セッションで、ジャコはザヴィヌル作の「キャノンボール」と自作の「バーバリー・コースト」の2曲にベーシストとして参加した。これ以降、ジャコはウェザー・リポートの正式メンバーとなり、次作『ヘヴィ・ウェザー』以降ではコ・プロデューサー としてクレジットされるようになった。 ウェザー・リポートでは単なるベーシストとしてではなく、曲提供なども含め、色々な意味での音楽的貢献度は高まっていた。『ヘヴィ・ウェザー』に収録され、ジャコのベース・ソロを聴くことが出来る「ティーン・タウン」では、父親譲りのドラミングも披露しており、後にライブ・アルバム『8:30』のスタジオ録音サイドに収録されている「8:30」でも、ジャコがドラムスを叩いている。来日コンサート時にはステージのオープニング曲としてジャコがドラムを叩いている。『ミスター・ゴーン』ではジャコ色が若干弱まったシンセサイザーとシーケンサー主体の抽象的なサウンドになり、この頃からジョー・ザヴィヌルとの確執が噂されるようになった。これ以降ウェザー・リポートのライブではジョー・ザヴィヌルの楽器類とジャコのベース・アンプの音量が非常に大きくなり、互いが音量でも競い合っているような雰囲気だったため、会場でPAされたサウンドは、ほぼロック・コンサート並の大音量だった。 ウェザー・リポート以外にもトリオ・オブ・ドゥーム (ジョン・マクラフリン、トニー・ウィリアムス、ジャコのトリオ) でのレコーディング・セッションと、トリオ・オブ・ドゥームでのハヴァナ・ジャム出演や、ジョニ・ミッチェルのアルバムとコンサート・ツアーへの参加など、一気に黄金時代を迎え華々しい活躍を続けていた。
※この「ウェザー・リポート時代」の解説は、「ジャコ・パストリアス」の解説の一部です。
「ウェザー・リポート時代」を含む「ジャコ・パストリアス」の記事については、「ジャコ・パストリアス」の概要を参照ください。
- ウェザー・リポート時代のページへのリンク