インドの独立運動と日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:06 UTC 版)
20世紀初頭の日本の大国としての台頭はインドでは肯定的に捉えられ、アジアの復活の始まりとして象徴化された。インドでは、戦後の日本の経済の立て直しと素早い経済成長に対して大いなる称賛の声があがった。両国の著名な人物はその時から増え、歴史的書物によれば、日本の哲学者岡倉天心とインドの作家ラビンドラナート・タゴール、岡倉とベンガルの詩人プリヤムヴァダ・バネルジーの間に友情が芽生えた。大英帝国の一部であった時代、多くのインド人がイギリスの統治に憤っていた。1923年8月17日、日英同盟は終焉した。そのため、二つの世界大戦の間に大日本帝国とその同盟国によってなされた今日でも論争となっている戦争犯罪について、インド国民軍は「我々の敵の敵は我々の味方」という態度をとった。 多くのインドの独立運動の活動家はイギリスの統治から逃れ、日本に滞在していた。インド独立運動の指導者であるラース・ビハーリー・ボースは日印関係の礎を築いた。後に首相となった犬養毅や汎アジア主義者である頭山満や大川周明らの日本人はインド独立運動を支援した。インドから留学していたA.M.ナイルは独立運動の活動家になった。ナイルは戦中はスバス・チャンドラ・ボースから、戦後はラダ・ビノード・パール判事からの援助を受けていた。 1899年に東京帝国大学はサンスクリット語科とパーリ語科を開設し、さらに1903年には比較宗教学科が開設された。このような環境の下、20世紀初頭には数多くのインド人留学生が日本に渡り、1900年、東方青年協会を設立した。ロンドンの目撃者から伝えられた彼らインド人留学生の反英的な政治活動はインド政府を狼狽させた。
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