イスラム教の隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 19:20 UTC 版)
「トルコクラティア」の記事における「イスラム教の隆盛」の解説
7世紀に生まれたイスラム教が「アラブの大征服」を開始するとシリア、北アフリカ、イベリアへ進出、それまで地中海世界を支配していたビザンツ帝国(東ローマ帝国)の支配地はアナトリア、バルカンのみと半減した。さらに、11世紀後半、トルコ系ムスリムがアナトリアに進出することでビザンツ帝国はさらに窮地に陥っていった。 11世紀前半、イラン高原で生まれたセルジューク朝は11世紀半ばよりビザンツ帝国の東半分を成していたアナトリアへ略奪行為のために軍を送っていた。しかし、1071年、セルジューク朝のスルタン、アルプ・アルスラーンはアナトリア東部へ侵入、マラズギルトの戦い(マンツィケルトの戦い) (en) においてビザンツ帝国軍を撃破、指揮を取っていた皇帝ロマノス4世ディオゲネスを一時的ながら捕虜とした。このマラズギルトの戦い以降、アナトリアは急速にセルジューク朝支配下となっていった。 しかし、マラズィギルドの戦い以降、セルジューク朝では内紛が発生、1077年にアナトリアでルーム・セルジューク朝が生まれた。このルーム・セルジューク朝はアナトリアを急速に征服し、ビザンツ帝国首都コンスタンティノープル近郊のニカイアを首都にするまで発展した。しかし、このアナトリアでのイスラム勢力の発展とエルサレムへ巡礼していたキリスト教徒らが圧迫されたという噂から1096年、第一回十字軍が結成され、アナトリアでルーム・セルジューク朝を撃破したため、ルーム・セルジューク朝は勢力を後退させた。 ただし、勢力を後退させたのは一時的なもので12世紀に入るとこの危機を克服、13世紀に繁栄を迎え、さらにトルコ系ムスリムの流入、ビザンツ帝国元臣民らの改宗によってアナトリアのイスラム化が進んだ。さらにトルコ系の人々の流入と非トルコ系の人々によるトルコ語の受容はアナトリアのトルコ化をもすすめることになった。 1243年、モンゴル帝国がアナトリアに侵入するとこれに敗れ去ったルーム・セルジューク朝はモンゴルに臣従、急速に衰えを見せ、アナトリアのトルコ系、ムスリム系諸勢力はそれぞれの君侯(ベイ)を抱く君侯国(ベイリク)へ分裂して行った。しかし、彼らは分裂したと云えども、アナトリアのビザンツ帝国領を攻撃、西へ向って勢力を広げて行った。
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