イサンドルワナとロルクズ・ドリフト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:19 UTC 版)
「ズールー戦争」の記事における「イサンドルワナとロルクズ・ドリフト」の解説
3個縦隊の侵入は妨げられず、1月22日に第三縦隊はイサンドルワナ近くに野営した。この日の早朝、チェルムスフォードは偵察隊を支援するため彼の部隊を分割して出動した。チェルムスフォードが野営地を去った後は ヘンリー・プレイン中佐が野営地の指揮を執った。ダンフォード中佐の第二縦隊の一部500人が到着し、野営地の兵力はヨーロッパ兵800、アフリカ兵900になった。だが、チェルムスフォードは野営地に防御陣地を構築しないよう命令を与え(地面が固すぎるためだった)、そしてズールー軍の接近情報も無視してしまっており、全ては手遅れとなった。 午前11時30分、ズールー軍2万がイサンドルワナの野営地に突撃をかけた。「猛牛の角」と呼ばれるズールー軍の三方向からの猛攻を英軍は支えきれずに蹂躙され壊滅する。英軍はヨーロッパ兵806人、アフリカ兵471人が犠牲となり 全滅、ズールー軍も3,000人が死傷しているが、イサンドルワナの戦い(英語版)はこの戦争中にズールーが得た最大の勝利となった。 23日未明、イサンドルワナから15kmのロルクズ・ドリフトの伝道所跡に築かれた砦の英軍守備隊へ勢いづいたズールー軍4,000が襲いかかった。ジョン・チャード中尉の守備隊はアフリカ兵が逃亡してしまいイギリス兵139人に過ぎなかった。40対1の戦力比にも関わらず、英軍は奮戦して2日間も持ちこたえ、イサンドルワナから退却してきたチェルムスフォードの部隊が接近したためズールー軍はようやく撤退した(ロルクズ・ドリフトの戦い)。犠牲者は英軍が戦死13人、負傷14人、ズールー軍が戦死351人。チャード中尉以下の守備隊将兵11名にヴィクトリア十字章が授与された。 イサンドルワナの敗報は白人植民者の間に急速に広まった。彼らは防備を固めるか、より安全なピーターマリッツバーグやダーバンへ逃げ出した。英国はナタール侵攻を恐れたが、ズールー軍はこれまでの戦闘で5,000人を失っており、戦果を拡張させる余力はなかった。
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