アロイスの誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 01:17 UTC 版)
「マリア・アンナ・シックルグルーバー」の記事における「アロイスの誕生」の解説
1837年、42歳で未婚のマリアに、生涯で1人だけの子供が生まれ、アロイスと名付けた。マリアはアロイスの父親を明かすことを拒んだ。そのため祭司はアロイス・シックルグルーバーと洗礼名をつけ、受洗者名簿の父親の欄には「私生児(illegitimate)」と入っていたとヴェルナー・マーザーは記している。歴史家はアロイスの父親について3人の候補を挙げ、議論を続けている。 ヨハン・ゲオルク・ヒードラー(en:Johann Georg Hiedler) ヨハン・ゲオルク・ヒードラーは後にマリアと結婚し、アロイスの出生届に名前が追加された人物である。また、ナチス・ドイツから公式にアロイスの父親として、つまりアドルフ・ヒトラーの父方の祖父として認められた人物である。 ヨハン・ネーポムク・ヒードラー(en:Johann Nepomuk Hiedler) ヨハン・ネーポムク・ヒードラーはヨハン・ゲオルク・ヒードラーの弟であり、アロイスの義叔父にあたる。青年期のアロイスを育て、貯蓄の大部分を残したが、もし自分がアロイスの実父だったとしても、そのことを公に認めることが得策であるとは思わなかった。 レオポルド・フランケンベルガー レオポルド・フランケンベルガーはニュルンベルク裁判の最中に元ナチスのハンス・フランクによって報告されたユダヤ人である。歴史家は、マリアの妊娠中にグラーツにはユダヤ人の家族はおらず、このハンス・フランクの憶測のみを根拠とするレオポルド・フランケンベルガーをアロイスの実父であるとする仮説を根拠のないものとして棄却した。 アロイスを生んだ時、マリアはシュトローネスでトランメルシュラガーという家族と同居していた。トランメルシュラガー夫妻はアロイスの代父母として記載されている。 マリアはまもなくシュトローネスの22番地にある家で父と住み始めた。その後、シックルグルーバー家の3人は、方々を渡り歩く製粉業者のジャーニーマンであるヨハン・ゲオルク・ヒードラーと親密になった。アロイスが生まれて5年後の1842年5月10日、マリアはヨハン・ゲオルク・ヒードラーとシュトローネスの近くのデラースハイムで結婚した。マリアは47歳、ヨハン・ゲオルク・ヒードラーは50歳だった。 ヨハン・ゲオルク・ヒードラーが、ヒトラーの実際の血の繋がった父方の祖父だったかどうかは、アロイスの元の出生届に父親の名前がなかったため分からない。この当時、ニーダーエスターライヒでは私生児は珍しいものではなく、いくつかの地域では、生まれた子どもの40%近くが私生児であり、1903年になって、ようやくその割合は24%になった。嫡出子が一般的になるのはまだ先のことだった。ナチズムの主要な方針の1つに、純粋なアーリア人とみなされた人は、自分の祖先の証明証(en:Ahnenpass)を持たなければならないというものがあったため、ヒトラーの反対者がヒトラーの父方の祖父はユダヤ人であるという噂を流布した際に、ヒトラーの祖先が疑問視された。 1931年、ヒトラーは自身の祖先に関する噂について、ナチス親衛隊に調査を指示した。その結果、ユダヤ人の祖先に関する証拠は一切見当たらなかった。その後、系譜学者のルドルフ・コッペンシュタイナーに大きな系図を作るよう指示した。その系図は1937年にDie Ahnentafel des Fuehrers(総統の系図)という本に載せられた。この本では、ヒトラーの家族は全員がオーストリア系のドイツ人でユダヤ人の祖先はなく、ヒトラーは汚れのないアーリア人の血統であると結論付けている。アロイス自身は、ヨハン・ゲオルク・ヒードラーを実父としており(3人の証人がそのことを確認している。)、1876年に祭司が出生届の父親の欄を変更している。このことがヒトラーの祖先についての正式な証拠とされ、したがってヒトラーはアーリア人だとみなされた。
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