アレゲーニー圏、1776年-1861年
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「ウェストバージニア州の歴史」の記事における「アレゲーニー圏、1776年-1861年」の解説
バージニア州西部の社会状況は州東部のものとは全く異なってきた。住民は同質ではなく移民の大部分はペンシルベニア州を経由して入ったドイツ人やプロテスタントのアルスター・スコッツであり、またさらに北部の州からも入っていた。アメリカ独立戦争の間、アレゲーニー山脈の西側に新たな州を作ろうという試みが復活し、1776年、山脈が東部への越えがたい障害になっているという理由で、「ウエストシルバニア」を設立する請願が大陸会議に提出された。地域の厳しい自然は奴隷制を益の出ないものにしており、時間の経過によりバージニア州の2つの地域における社会的、政治的および経済的相違は大きくなるだけだった。 1829年に新しいバージニア憲法を作るための会議が招集されたが、これは山脈の向こうの郡部から挙がった抗議に対応するものであり、この憲法では選挙権は一定以上の資産資格を要求し、奴隷人口の5分の3規定のおかげで連邦下院議員の州内割り当ては奴隷を所有する東部の郡に厚くなっていた。その結果アレゲーニー山脈より西の郡は1郡を除いて憲法案を拒否したが、それでも東部の郡の賛成で可決された。1850年のバージニア憲法は白人男性への選挙権を与えたが、議席の配分はブルーリッジ山脈より東の地域に多くを与えるようになっていた。西部にとって他にも不公平感を与えたのが、東部のバージニア公共事業局によって、西部に割り当てられた乏しい予算に比べ、州東部の改良に多くの予算が使われていたことだった。 西部の地域にとっての問題は、リッチモンドにある州都からの距離の問題や経済の関心事項の違いがあった。アレゲーニー山脈にそって東部大陸分水嶺の東(水は大西洋に注ぐ)ではタバコや食用穀物の農業、漁業および海岸での海運業がその中心だったが、西部の地域はオハイオ川やミシシッピ川を経てメキシコ湾に注ぐことに拠って立つ経済だった。 西部の地域は西部にいる隣人との交易に重点を置き、多くの市民は人口の多い東部がバージニア議会を支配しすぎていて、自分達の必要なことには鈍感だと感じた。バージニア州政府におけるこれら相違点に関わる大きな危機は、南北戦争の前の時代に一度ならず注意が向けられたが、潜在的な問題は基本的なものであり、決して解決されなかった。
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