アルトワ女伯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 20:48 UTC 版)
「マティルド (アルトワ女伯)」の記事における「アルトワ女伯」の解説
1302年7月11日に金拍車の戦いで父ロベール2世が戦死した際、マティルドがアルトワ伯領を相続し女伯となった。 本来父の相続人であった長弟フィリップが既に1298年に戦死しており、アルトワ家の男系に当時幼少であったフィリップの長男ロベール3世・ダルトワがいたが、アルトワが慣習で男系相続より長子相続を重んじていたため、相続人には男子であるが、先代の孫にあたるロベール3世より、先代の嫡女であるマティルドが優先された。 この相続が後に伯母・甥間のアルトワ伯領相続における対立の原因となった。 ロベール3世は自分のアルトワ伯領相続権を主張したが、1309年10月9日にフランス王フィリップ4世によってマオーに有利に決定され、マオーは1311年12月にフォンテーヌブローにてベテューヌ領を拝領した。 1314年、ロベール3世の支援を受けた小貴族達が反逆を起こしたが、マティルドがすべて鎮圧した。 甥ロベール3世はフランス王家に嫁がせたマティルドの娘達が後述の『ネールの塔事件』に巻き込まれた隙を突き、マティルドに仕えていた女官ベアトリス・ディルソンの叔父でアルトワの宰相を務めた故アラス司教ティエリー・ラルシェール・ディルソン(英語版)の愛人ジャンヌ・ド・ディヴォン(英語版)とマティルドに恨みを抱く者同士で結託し、1317年10月9日「ロベール3世を後継者とする」というロベール2世の遺言状を偽造した。偽の遺言状を提出して王にロベール3世こそがアルトワ伯領の統治者であると訴え、マティルドからアルトワ伯領を奪おうとした。 しかし、結局遺言状の偽造は王家に看破され、マティルドは伯位没収を免れた。 この一件により関与したジャンヌ・ド・ディヴォンはパリの『豚の市場(Place aux Pourceaux,フランス語版)』にて火刑に処され、ロベール3世はフランス王家への謀反人と認定され、所領を没収され母方の親戚にあたるイングランド王家に亡命し、残された妻子はフランス王家に逮捕された。 マティルドは権威主義的な面から不評を買うこともあったが、領主としての手腕に優れた人物であった。領民には無尽蔵の寛大さを発揮し、生活困窮者や修道院・病院に多くの寄付を贈っていた。 また、芸術を庇護し、まるでそれを励みとするかのようにマティルドが写し取った貴重な数多くの写本が遺っている。
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