アルトン&エディ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 07:47 UTC 版)
「アルトン・エリス」の記事における「アルトン&エディ」の解説
アルトン&エディは1957年から1960年にかけてコクソン・ドッドのワールディスク(後のスタジオ・ワン)やヴィンセント・チン(英語版)のランディーズといったレーベルで数曲のR&Bを録音する。そのうちトレンチタウンの友人ジョージが作曲し1957年に録音され、1959年に発表されたラブソング「ミュリエル ("Muriel")」が彼らのデビュー作となり、ジャマイカとイギリスでヒットした。なお「ミュリエル」はプロデューサーのコクソン・ドッドにとっての最初のヒット曲でもあり、録音時のミュージシャンであるジョニー・ムーア、ロイド・ニブ、ロイド・ブリヴェット、ローランド・アルフォンソらは、後に結成されるスカタライツの主要メンバーとなった。また、エリスは後年コンサートでこの曲を歌うときには「この曲が一番好きなんだ」というMCをしばしば入れていた。 アルトン&エディは「ミュリエル」の他に「マイ・ヘヴン ("My Heaven")」、「ララバイ・エンジェル ("Lullabye Angel")」、「アイ・ノウ・イット・オール ("I Know It All")」、「アイム・ネヴァー・ゴナ・クライ ("I'm Never Gonna Cry")」、「ユアーズ ("Yours")」の少なくとも5曲をドッドの元で、「マイ・ラヴ・ディヴァイン ("My Love Divine")」など数曲をランディーズで録音した。しかし、国際的ヒット曲となった「ミュリエル」に対して支払われたギャランティーがわずか15ポンドであったなど、ドッドから十分な報酬が受け取れなかったことに失望したエリスは、一時的に音楽の世界から離れ、キングストンの印刷会社スティーブンズ・プリンター社で2年間印刷工の仕事に就いた。エリスが音楽から離れている間、パーキンスはジャマイカのタレントショー『スター・イズ・ボーン ("A Star Is Born")』に優勝し、アメリカの人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演する機会を得てアメリカに長期滞在したため、アルトン&エディのデュオは自然消滅となってしまった。
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