アメリカとヨーロッパでの旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 17:23 UTC 版)
「ジョージ・フォックス」の記事における「アメリカとヨーロッパでの旅」の解説
1671年、バルバドスとアメリカ大陸のイギリス人居住地に行き、そこに2年間滞在した。北アメリカ大陸で最初に足を踏み入れたのはメリーランドだった。そこで地元のクエーカーの4日間の会合に参加した。様々なイギリス人が、他の植民地へと移って行く中で、その地に残った。なぜなら、先住民と会いたいと思っていたからである。先住民はクエーカーの方法に興味を持っていた(会合に参加するか「大論争」があったとフォックスは記録しているが)。フォックスは先住民の普段の物腰に感動し、愛情と敬意を表明した。 植民地のどこに行っても、そこに友会徒のための組織を確立する手助けを、かつてイギリスで行ったのと同じ手法で行った。多くの非クエーカーに対しても説教を行い、中には改宗するものもいて、ランター派やカトリックには信念がなかった。「先住民には神の光と聖霊はない」という(北カロライナのある男の)意見に真っ向から反対した。 植民地各地を巡る大旅行を終えると、1673年にフォックスは帰国した。暫くして再度投獄され、健康を損ない始めた。マーガレット・フェルは国王に釈放を請願し、釈放されたが、フォックスはすぐに弱った体で動くのは無理だと感じた。代わりに本や手記を増やす一方で公私の手紙の数を増やした。クエーカーの考えが重要だと確信していた誓約の問題に労力を多くつぎ込んだ。神に対するものと同じく真理と内なる光に関係する毎日の生活における真理の価値を目の当たりにすることができると感じた。 1677年と1684年に、オランダのフレンド会を訪ね、規律を守るための会合を組織した。ドイツにも信仰の旅に出かけた。一方でイギリスの友会徒には会合での女性の役割をめぐる論争に手紙で参加し、自分が消耗したことを感じた。帰国すると、論争に終止符を打とうと南部に滞在した。1684年終わりにかけて健康状態が悪化したが、自分の信仰とクエーカーの処遇についてポーランド、デンマーク、ドイツなどあらゆる国の指導者に手紙を書くという新たに困難な活動を続けた。 晩年にはフォックスは年次会合に参加を続け、友会徒の受ける扱いについて依然議会に陳情を続けた。1688年の名誉革命、および翌1689年の寛容法(英語版)でクエーカーが一様に迫害を受ける状態に終止符を打ち、この年に多くのクエーカーが釈放された。
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