アマルフィとサレルノの征服、1073年–1077年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「アマルフィとサレルノの征服、1073年–1077年」の解説
アマルフィとサレルノがロベルト・グイスカルドの手に落ちたのは両者ともにその妻であるシセルガティア(イタリア語版)の影響のもとで起きた。アマルフィは恐らく彼女の交渉によって引き渡され、他方、サレルノの方は自身の兄弟であるサレルノ公の代理である夫に嘆願することを止めた後に落ちた。アマルフィ市民もノルマン人の宗主下になることを避けようと試みて、短期間でギスルフ公のもとに入ったが、これが失敗して9世紀以来歴史家が密接に結び付ける2つの国は両者ともノルマン人による永久的な支配下に置かれた。 1076年の夏までにサレルノ公ギスルフ2世は海賊行為や襲撃によってノルマン人を十分に悩ますことで彼等を刺激して自身を破滅させることとなった。この時期にノルマン人のカプアのリッカルドとロベルト・グイスカルドは共同でサレルノを包囲した。ギスルフ2世は市民に対して2年間分の食料の蓄えを命じたものの、自らの贅沢な生活を続けるために十分な食料を没収したことから市民は直ぐに飢えることとなった。1076年12月13日に町は降伏して公とその家臣は要塞に後退し、その要塞は1077年5月13日に陥落した。ギスルフの土地は没収されてその遺品は奪われたが自身は自由となった。サレルノ公国は、以前のグリエルモ・ディ・アルタヴィラ(イタリア語版)、ルッジェーロ、ロベルト・グイスカルドとの争いで既に多かれ少なかれ首都及び周辺地域が縮小していた。しかしながらこの町は南イタリアでは最も重要であり、その占領は15年後の王国創立には必要不可欠であった。 1073年にアマルファイ公セルギオ3世(英語版)は後継者である唯一の幼いジョヴァンニ3世(英語版)を残して没した。これらの不安定な時期にアマルフィ民衆を守るための強力な支配が求められたことから、彼等は幼い公を追放して同年にロベルト・グイスカルドを呼んだ。しかしながらアマルフィはノルマン人の支配下では不安定なままであった。ロベルトの後継者である前述のルッジェーロ・ボルサがアマルフィを支配できたのは、ギスルフがサレルノ公を免じられて追放された後の1089年のみであった。アマルフィ市民はロベルトの後継者による請求に対抗すべく教皇からの援助を取りつけた。1092年から1097年にかけてアマルフィはノルマン人による宗主を認めずにビザンツ帝国に援助を求めて懇願した。両者は1096年にマリノ・セバステ(イタリア語版)を支配者として据えた。 ロベルトの息子ボエモンと 弟であるルッジェーロ1世は1097年にアマルフィを攻撃するも撃退された。この包囲時に最初のノルマン人は第1回十字軍によって引き離されていった。マリノが唯一敗北したのは何人かのアマルフィ貴族がノルマン側について裏切った1101年の後であった。1130年にシチリア国王ルッジェーロ2世が忠誠を要求した時にアマルフィは反乱を起こした。首長ジョヴァンニ(英語版)は陸地から押し寄せてアンティオキアのゲオルギウス(イタリア語版)が海上封鎖して カプリ島を拠点に陣取ることで1131年に反乱は最終的に鎮圧された。
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