アマルナの衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 05:55 UTC 版)
アマルナは紀元前14世紀に改革の実現のためアメンホテプ王の治世第4年に「唯一神アテン」の侵攻を唱え、王都テーベにアテンのための神殿を建てた。しかしテーベでアトン信仰の確立は困難となったので、即位6年目にアマルナに都を移し、新王都アマルナ(アケト・アテン、アテンの地平線)造営が決定され、2年の間にテーベより遷都するために急いで建設された。太陽神アテンを唯一神とする都「アケトアテン(アテンの地平線と意味)」と題されて建設されたこの都は、当時の人口は約3万人ほどであるとされ、古代においては大都市の類だった。しかし、アメンホテプ王の死後に即位した新王ツタンカーメンの治世第4年に放棄され、中心地は未だ完成されていないアマルナを永久に去って都も戻され、アマルナはわずか15年ほどの都と記憶されることとなった。 その後、後世のファラオ・ホルエムヘブの命令によりアマルナの町は破壊され、その石材は他の場所での建設計画のために運び去られた。アメンホテプ4世は後世の人々からは「アメン信仰を棄てて“アテン”という異端の神を崇拝した」と看做され異端者とされる。王はその名を冒涜され、その名が削除されたあおりを食らって彼がアマルナに造営した建物は破壊された。現在、アマルナに残っている美術作品の王区は、崖などに彫られている磨崖碑などである。 建設を早めるため、日干しレンガを多用して表面を磨いた建物がほとんどで、これが後に遺構をあまりとどめず、急速な衰退を招いた一因ともなった。日干しレンガ粘土を固めた後に天日で乾燥させて造る煉瓦であり、よく成形して乾燥させた日干しレンガは、乾燥帯では現在も使用されている建材となっている。今でも、耐候性に優れ、普及している地域は多い。しかし、ひとたび長雨に晒されればその被害は甚大で、多くは泥に還ることが多い。その為、アマルナは長年の雨に晒されて劣化し、崩壊したとされる。ただし、古代エジプトでは普通、王宮や要塞、神殿境内や都市を囲う壁、あるいは神殿複合体の中にある補助的な建物、家屋を作るために用いられていた。 しかし、この町は全く忘却されたわけではなかった。この場所は後のホルエムへブの時代に建てられた寺院が残っている他、更に後世のローマ帝国時代や初期キリスト教の時代にも使われており、都市の南部の発掘ではそれらの時代の遺構やコプト教会の施設などが見つかっている。 アマルナの遺跡には、神殿や南北の王宮、政庁の遺構、王や高官の墓などが現在でも遺跡として残っており、その他には王族の崖に作られたネクロポリスが残っている。ほかの都は、後世の遺跡に埋もれてしまったり、現在でも街であったりするために、古代の都市計画は判然としない都市も多い。そのため、遺構の基礎部分の保存がよく、都市計画を知りうることのできる古代エジプトでは数少ない遺跡の一つとして重要視されている。
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