アプヴェーアにおける活動
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「アンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ」の記事における「アプヴェーアにおける活動」の解説
1940年1月には、当時のラモン・セラーノ・スニェール(スペイン語版)内務大臣と懇意にしていた事から、マドリードにある政治学研究所の報道担当官に任ぜられた。ベラスコの役割は、パートナーであるミゲル・ピエルナヴィエハ・デル・ポゾがドイツへの報告書の打電を行う一方で、スペイン国内にスパイ網を構築する事だった。この任務における主たる目的は、イギリス大使館の職員から、イギリス船の動向に関する情報を入手し、最終的にはジブラルタルの岩を爆破する事だった。作戦実行の可否を判断するにあたって、同年7月にアプヴェーアからカナリス部長自らがスペインを訪れたが、フランコ政権は参戦に渋りがちであると判断した事もあって、作戦は立ち消えに終わる事となった。 また、アプヴェーアのスパイとして渡英する事を謀るべく、イギリスの駐スペイン大使であるサミュエル・ホーア(英語版)との会談の場において、自身を反フランコ主義のラジカルなファランジストであると売り込んだ。反フランコの盟友を得たと判断したホーアは、駐英スペイン大使館の報道担当官に就任する為には、イギリス外務省のアグレマンが欲しい、というベラスコの要望を受け入れた。 1940年秋に渡英し、カナリスのファーストネームをスペイン語読みにした「ギレルモ」のコードネームで、諜報活動に従事する事となった。赴任後は、反フランコの在英スペイン人ジャーナリストのほか、スコットランドやウェールズ(英語版)の分離主義者を取り込み、ザ・ブリッツによるロンドン市内の被害状況や、イギリス軍の編成に関する情報をドイツへ送っただけでなく、協力者達を反フランコのゲリラとして育成する事も目論んだ。しかしスペイン大使館は、適切な情報セキュリティ対策を講じていなかったため、前述したベラスコによるスパイ行為は、その大部分がMI5によって傍受される事となった。 1941年3月からは、国家保安本部第IV局(ゲシュタポ局)E部(防諜部)部長であるヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将の指揮下に入り、ポルトガルにおけるウィンザー公爵の誘拐を目的とした、ウィリー作戦(英語版)に携わる事となった。ベラスコは、スペイン政府からの密使の一人として、リスボン滞在中のウィンザー公と会談し、中立国たるスペインだけが安全に過ごせるとして、渡西を勧めたものの、結局はこの事が、イギリス政府によってウィンザー公がバハマへ送られる切っ掛けを作る要因の一つとなった。
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