アタベリ陰謀事件(1722年)
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「ジャコバイト」の記事における「アタベリ陰謀事件(1722年)」の解説
1722年のアタベリー陰謀事件は、南海泡沫事件により名望を失った元第一大蔵卿のサンダーランド伯チャールズ・スペンサー、ロチェスター主教フランシス・アタベリー(英語版)らが中心となった、ジャコバイトによるクーデター計画である。この計画は事前に政権側に洩れ、計画段階で潰えることとなった。これによって、ロバート・ウォルポールを始めとするホイッグの優越は決定的となり、トーリー議員らジャコバイトは表立ったステュアート朝への支持を控えるようになった。 南海泡沫事件の責任追及によって、サンダーランド伯は1721年に第一大蔵卿(当時の首相にあたる)を辞任せざるを得なくなり、代わって事後処理に辣腕を振るったロバート・ウォルポールが政権の座についた。自らの復権をめざすサンダーランドは、その後ろ盾としてステュアート家やジャコバイトを選択し、フランシス・アタベリーらと接触するようになった。そしてその計画は、1722年に実行の好機を迎えた。すなわち、総選挙実施による議会の解散と、ジョージ1世がハノーファー滞在中であったことである。しかしこの計画はフランスから情報が洩れた上、1722年4月19日にサンダーランドが「原因不明の急死」をとげ、彼の邸宅からクーデターに関する文書が発見された。これによってクーデター計画は頓挫することとなった。 これを受けて、イギリス史上最大の魔女狩りの一つと言われる、大規模で強権的なジャコバイト狩りが行われ、アタベリーら高位の中心人物は国外追放となり、カトリックには重税が課された。一連の捜査による苛烈な拷問は、ステュアート家に同情的だったトーリー議員らを恐怖させるに十分であった。以降、すくなくともイングランド内では、ジャコバイトであることを公言する者は皆無となった。また、この事件以降トーリーはジャコバイトと見なされることとなり、ホイッグ対トーリーという議会内の対立の構図が次第に薄れ、王政復古以降存在していた宮廷(コート)対地方(カントリ)という対立図式が存在感を増していった。
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