アジア探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:41 UTC 版)
「ニコライ・リョーリフ」の記事における「アジア探検」の解説
ニューヨークを後にしたリョーリフ家は、長男ジョージとその友人6人と共に、5年計画での「リョーリフ家のアジア探検」に赴いた。 リョーリフ自身の言葉を借りると「シッキムから始まり、パンジャーブ、ラダック、カラコルム山脈、ホータン、カシュガル、Qara Shar、ウルムチ、エルティシ川、アルタイ山脈、オイロート、中央ゴビ、甘粛省、ツァイダム盆地、そしてチベットへ」の探検旅行であり、途中、1926年にシベリアからモスクワへ寄り道する予定であった。 探検出発後、一行はチベット政府によって5か月間拘束され、1927年夏ごろから1928年6月までの約1年間にかけて一時行方不明となった。この間、わずかな配給食糧と氷点下でのテント暮らしを強いられ、一行のうち5名が死亡した。1928年春、チベット退去を許可されたリョーリフ家は南を目指して歩き、インドの研究施設「ヒマラヤ研究所 (Himalayan Research Institute)」の職員に保護された。リョーリフは「我々は銃をもっていたので流血の惨事は免れたが、チベットのパスポートがあったにも関わらずチベット当局は強制的に探検をストップさせた」と語った。 リョーリフは、チベットにあるとされるシャンバラについての思想を展開し、後にソ連とアメリカの和解と心霊的な世界連邦樹立を目指して活動した。
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