アウディージオによる証言の受容
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「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「アウディージオによる証言の受容」の解説
1947年になるまで、ムッソリーニ処刑へのアウディージオの関与は隠匿されており、共産党紙L’Unità上で1945年末に発表された最初期の報告では、ムッソリーニ銃殺の実行者は単に「ヴァレリオ大佐」とされていた。アウディージオの本名が最初に言及されたのは、Il Tempo紙の1947年3月の記事においてであり、その後共産党が公式にアウディージオの関与を認めた。1947年3月下旬には、処刑への関与についてそれまで公に語ってこなかったアウディージオが、L’Unità上の一連の5本の記事の中で自らの証言を発表した。ここで証言された内容は、アウディージオが著し、死の2年後(1975年)に出版された本でも繰り返されている。アウディージオの証言以外にもムッソリーニの死については諸説が発表されており、1960年代にはラッザロとベッリーニ・デッレ・ステッレが著したDongo, la fine di Mussoliniおよびジャーナリストのフランコ・バンディーニによるLe ultime 95 ore di Mussoliniが出版され、これらはムッソリーニ処刑についての「古典的」な説明を提示した。 ほどなく、アウディージオが当初L’Unità上で発表した証言と、アウディージオがその後に行った証言および他の関係者による説明との間に食い違いがあることが指摘されるようになった。アウディージオの証言は、真実を中心としたものである可能性が高いが、他方でそこには確実に誇張が含まれていた。指摘された矛盾点と明らかな誇張は、「政治的な目的で、共産党がアウディージオを処刑実行者に仕立て上げた」との発想と結びつき、一部のイタリア人はアウディージオの証言のほとんど、または全てが虚偽であると信じるようになった。 1996年、それまで公表されてこなかったアルド・ランプレーディの証言がL’Unità上で発表された。これはランプレーディが1972年に、共産党の記録資料として書いたムッソリーニ処刑についての報告で、飾らずに起こった出来事を伝えており、重要な経緯の説明はアウディージオの証言と一致していた。ランプレーディは間違いなく処刑を目撃した人物の1人であることに加え、共産党が保管する「非公開」の記録としてこの報告を作成していたため、真実を歪めて伝える動機はなかったと考えられている。さらには、ランプレーディは実直な性格で知られており、またアウディージオを個人的に嫌っていることでも有名であった。これらの要因により、彼の証言とアウディージオの証言が大枠で一致していることは重要視されている。ランプレーディの証言が公表された後、ほとんどの専門家はその信憑性を認めた。歴史家のジョルジョ・ボッカ(英語版)は次のように述べた。「50年にわたって組み立てられてきた『ドゥーチェ』の最期についての質の悪い虚構は、ランプレーディの証言によって一掃された。……50年間で広められた、多くの馬鹿げた説は事実ではなかったのだ。……真実は、今や明白になった。」
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