アイルランドのパッラーディオ主義建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:37 UTC 版)
「パッラーディオ建築」の記事における「アイルランドのパッラーディオ主義建築」の解説
アイルランドにおけるパッラーディオ復古期では、かなり質素な邸宅であっても新パッラーディオ建築の型に嵌めることができた。アイルランドのパッラーディオ建築はイングランドのものとは幾らか異なっている。他の国と同様にパッラーディオの基本的な考え方に固執しているが、より忠実であることが多い。それはおそらくヨーロッパ大陸から来た建築家によって設計されることが多く、それ故にイギリスで進行中だったパッラーディオ主義の変革の影響を受けなかったためだった。その理由はどうあれ、パッラーディオ主義はより湿度が高く冷たい気候にも適応しなければならなかった。 アイルランドで最も先駆的な建築家の一人が、エドワード・ラベット・ピアース(1699年-1733年)であり、アイルランドにおけるパッラーディオ主義の指導的提唱者の一人となった。ジョン・ヴァンブラ卿の従兄として元々その弟子の一人だが、バロックを拒否し、フランスとイタリアで建築を研究して3年間を過ごし、その後アイルランドの故郷に戻った。その最も重要なパッラーディオ主義作品はダブリンにあったアイルランド議会議事堂だった。ピアースは多作な建築家であり、1727年のドラムコンドラハウスや1728年のキャシェル・パレスも設計した。 アイルランドにおけるパッラーディオ建築の最も顕著な例の1つは、ダブリンに近いキャッスルタウンハウスである。イタリアの建築家アレッサンドロ・ガリレイ(1691年-1737年)が設計し、パッラーディオの数値比に従って建設されたことでは恐らくアイルランドで唯一のパッラーディオ建築家屋であり、ワシントンD.C.のホワイトハウスのデザインにヒントを与えたと主張する、アイルランドの邸宅3棟の1つでもある。 他の例としては、ドイツ生まれの建築家リヒャルト・カッセルスが設計したラスボロハウスがある。カッセルスはダブリンのパッラーディオ・ロタンダ病院や、ファーマナ県のフローレンス・コートがある。アイルランドのパッラーディオ・カントリーハウスは頑丈なロココ漆喰仕上げであることが多く、アイルランドの専門職ラフランチニ兄弟によって仕上げられている。当時のイングランドの作品の内部よりも遥かに鮮やかなものである。18世紀にダブリンで多くが建設されたので、ダブリン市にはジョージア調の烙印が捺されているが、まずい計画と貧困の中から出てきたものであり、近年までダブリンは18世紀の瀟洒な家屋が傾きかけた状態で見られる数少ない都市の1つだった。1922年以後のアイルランドはどこでも、無人のパッラーディオ建築家屋の屋根から、そのスクラップとしての価値故にリードが外された。家屋は屋根を元に課税されたので、その重税のために放棄されることが多かった。アイルランドの人が減った田舎では、パッラーディオ建築家屋の屋根の無いものが今でも見られる。
※この「アイルランドのパッラーディオ主義建築」の解説は、「パッラーディオ建築」の解説の一部です。
「アイルランドのパッラーディオ主義建築」を含む「パッラーディオ建築」の記事については、「パッラーディオ建築」の概要を参照ください。
- アイルランドのパッラーディオ主義建築のページへのリンク