ゆかりの人物・エピソード
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「パッサウ」の記事における「ゆかりの人物・エピソード」の解説
司教ヴォルフゲル・フォン・エルラ(Wolfger von Erla ; 1140年頃-1218年、司教在位1191年-1204年)はドイツ中世英雄叙事詩の傑作『ニーベルンゲンの歌』の成立に関わり、また同時期に活躍した抒情詩詩人ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデの支援者でもあったと思われる。すなわち、『ニーベルンゲンの歌』後編21歌章(C 1322)では、フンの王エッツェルと結婚するためにヴォルムスからフン国に向かうクリームヒルトが旅の途中でパッサウの司教領主ピルグリム(Pilgrim)が迎えられるが、ピルグリムが作品成立頃のパッサウ司教ヴォルフガー・ヴォン・エルラを暗示していると考えられるからである。ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデとの関わりでは、司教ヴォルフガー・ヴォン・エルラの支出簿に詩人の名前が挙げられ、cantor(歌人)の毛皮の外套のためにしかじかの金額が支払われたと記されている。これはヴァルターについての唯一の史料として名高い。ヴァルターは、後にアキレイアの総大司教になった同司教を「気高くて非の打ちどころなき総大司教」(L. 34,36)と形容し、自身がその宮廷で歓待されたことを歌っている。 福者ギーゼラ(Gisela; 985年頃-1060年頃)は、バイエルン公の娘として生まれ、後にハンガリー国王となるイシュトヴァーンと結婚し、その地のキリスト教布教に尽くした。ヴェスプレーム(Veszprém) の教会を寄進したとされる。夫の死後、その甥が王位を継ぐと彼女はパッサウのニーデルンブルク修道院に落ち着き、修道院長となった。彼女はハンガリー人に敬愛され続け、14世紀にはハンガリーからギーゼラ詣でに人々が訪れた。 モーツァルト一家は1762年ザルツブルクからウィーンに向かう途中、9月20日にパッサウに到着し、司教領主の要望に応えて6歳のヴォルフガングが演奏をする。パッサウまでは馬車の旅であったが、ここからは船で招待者マリア・テレジアの待つウィーンへと向かう。 エリーザベトは1854年4月20日、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と結婚式をあげるウィーンへの旅の途次、パッサウで歓呼の声に迎えられた。
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ゆかりの人物・エピソード
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「ドレスデン」の記事における「ゆかりの人物・エピソード」の解説
森鷗外1884年から約4年間のドイツ留学をしていた鴎外は、1885年10月11日から翌1886年の3月初旬まで、約5ヶ月間ドレスデンに滞在していたことがある。小説『文づかひ』はドレスデンを舞台にした作品である。 ゲーテドレスデンが気に入ったゲーテは、幾度かこの地を訪れている。彼はエルベ川からみて旧市街地側の川に沿って続く小高い歩道を好んで散歩した。それは森鴎外が滞在するおよそ100年前のことであった。 フリードリヒ・シラー戯曲『群盗』の初演で成功を納めたものの領主の不興を買って各地を放浪したシラーは、1785年4月友人のケルナーらに迎えられ、そのドレスデンの家に2年間寄寓し、幸福な日々を過ごす。その間に生まれたのが、ベートーヴェンの第九こと交響曲第9番で歌われる詩「歓喜の歌」である。 リヒャルト・ワーグナードレスデン宮廷劇場指揮者になったが、1848年のドイツ革命の際、ドレスデンでのバリケード戦に参加している。
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