まだ沈まずや、定遠は
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 15:57 UTC 版)
1894年1月、朝鮮で農民反乱が発生(甲午農民戦争)。現地情勢に介入しようとした日清両軍が衝突し、日清戦争が始まった。7月25日、北洋水師の一部は陸軍を朝鮮へ輸送する船の護衛中、日本艦隊に攻撃され敗走した(豊島沖海戦)。 上述の通り、李鴻章はこの時点での自らの海軍の現状を認識しており、彼は丁汝昌に対し積極的な出撃を避け、艦隊を温存するよう命令した。有力な北洋水師を脅しに使い、日本政府との和平交渉を有利に進めようと図ったものだが、9月17日、水師主力は鴨緑江河口で輸送船の護衛任務中に(脅威を過大に、ある意味李鴻章の狙い以上に評価して)艦隊の積極的な補足撃滅を図った日本海軍と遭遇、敗北した(黄海海戦)。 軍歌にもなった日本軍水兵の叫び(勇敢なる水兵を参照)とは別に、この海戦で「定遠」「鎮遠」は沈まなかった。しかし両艦は日本軍の速射砲でヴァイタル・パート以外の部分に多大な被害を受けていた。それ以外の艦も、衝撃のために接近したのが仇となって、日本艦隊に至近距離から撃たれて大ダメージを被った。そして弾薬の欠乏と補修能力の欠如がここで災いし、さらに日本軍が陸上から軍港を攻め落とす作戦を展開したため、水師は旅順、威海衛と敗走。最終的に多くの艦艇が沈むか、日本海軍に接収される末路を辿った(威海衛の戦い)。 1895年2月11日、進退窮まった丁汝昌は服毒自決。17日、北洋水師は降伏した。日本艦隊を率いる伊東祐亨は接収した北洋水師残存艦の中から「康済」1隻を清朝側に返却。艦隊各艦からの登舷礼を以って丁提督の棺と、水師の将兵を送り出した。 「定遠」は日本軍水雷艇の攻撃で損傷し自沈したが、姉妹艦「鎮遠」は鹵獲され、日本海軍の二等戦艦として日露戦争に参加した。
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