とさ (フェリー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/21 15:36 UTC 版)
とさ | |
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基本情報 | |
船種 | フェリー |
船籍 |
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所有者 |
土佐特急フェリー(1971-1972) 大阪高知特急フェリー(1972-1973) 関西汽船(1973-1987) セブフェリーズ(1998-) |
運用者 |
土佐特急フェリー(1971-1972) 大阪高知特急フェリー(1972-1973) 関西汽船(1973-1987) セブフェリーズ(1998-) |
建造所 | 四国ドック |
母港 | 大阪 |
IMO番号 | 7118791 |
改名 |
とさ(1971-1973) はやとも丸(1973-1987) MASBATE 1(1987-1998) OUR LADY OF MANAOAG(1998-) |
経歴 | |
起工 | 1970年 |
進水 | 1971年 |
竣工 | 1971年9月2日[1] |
就航 | 1971年9月[1] |
運航終了 | 1987年9月 |
要目 | |
総トン数 | 3,350 トン[1] |
全長 | 104.6 m[1] |
垂線間長 | 96.0 m[1] |
幅 | 20.0 m[1] |
深さ | 5.4 m[1] |
喫水 | 4.4m[1] |
機関方式 | ディーゼル |
主機関 | 神戸発動機 2基[1] |
推進器 | 2軸[1] |
出力 | 8,600馬力[1] |
最大速力 | 20.0ノット[1] |
航海速力 | 18.5ノット[1] |
旅客定員 | 616名[1] |
車両搭載数 | 8トントラック46台、乗用車41台[1] |
とさは、土佐特急フェリーが運航していたフェリー。後に関西汽船で就航した。
概要
土佐特急フェリーの第一船として四国ドックで建造され、1971年9月に就航した。
同じく大阪と高知を結ぶ航路を開設した大阪高知フェリーのフェリーなにわより三か月早く就航したが、 1972年8月、土佐特急フェリーと大阪高知フェリーが合併、大阪高知特急フェリーが発足したことにより本船は予備船となる。
1973年8月、関西汽船に傭船され、はやとも丸と改名され、小倉 - 松山航路に就航した。 1987年9月、フェリーはやとも2の就航により引退した。
その後、海外売船され、フィリピンでMASBATE 1として就航した。 1998年には、セブフェリーズの、OUR LADY OF MANAOAGとなった。
航路
土佐特急フェリー
- 大阪港 - 高知港
- 本船のみで就航していた。高知からの生鮮食料品の輸送を重視したダイヤで、上り便は高知17時発、大阪着翌1時30分となっていた[1]。
関西汽船
- 小倉港 - 松山港
- くるしま丸と就航していた。
設計
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船体は4層構造で、上部からA-Dデッキと呼称した場合、Aデッキは操舵室および乗組員区画、Bデッキは船室および露天デッキ、Cデッキは前方が船室、後部が乗用車搭載区画、Dデッキはトラック搭載区画となっていた。
脚注
関連項目
- 北九州市病院長殺害事件 - バラバラに解体した死体をはやとも丸から遺棄した事件。
「とさ (フェリー)」の例文・使い方・用例・文例
- 彼に責められる非はないとされた
- 電灯の発明はエジソンによるとされている
- 間違ってモネの作とされた絵
- とさかの赤い鳥
- 私は彼の名前を聞いたことさえない
- この仕事は器用な手先が必要とされる
- この前の地震でそのビルはことさらひどい被害を受けた
- リストから一人の名前も落とさないように気をつけなさい
- そのメッセージは知事が出したものとされている
- 戦争中爆弾が雨のように首都に落とされた
- そのニュースは彼らをぎくりとさせた
- 必要とされていない,余っている
- よくあることさ
- 彼の間違いは見落とされた
- 親身になって相談にのって下さる方が、これからの社会に更に必要とされる
- Xが寺の始まりとされる
- 大きいものは重さ400kg以上、体長約3mになります。数年前、1億5,000万円で競り落とされたマグロがありました。
- 会議は、Powersさんによって午後7時30分に一時休会とされた。
- 必要とされる学位を持っている。
- 許可されているものとされていないものの安全基準は、弊社のウェブサイトwww.air-qatar.comでご確認いただけます。
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