その他交友関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
佐久間象山 江川英龍の門下で砲術を学んだ同門。その後も付き合いは続いており、磐渓は開国論の先達者として象山を尊敬していた。互いに大酒飲みで天下を語ることが好きだった彼とは馬が合った様である。また、吉田松陰(象山の弟子)に磐渓を紹介したのも彼だと思われる。 山内容堂 土佐藩藩主。鯨海酔侯と呼ばれた大酒飲みで、磐渓とは詩作・酒飲み仲間であった。しかし、2人の仲は戊辰戦争に前後して大きく変わってしまう。1868年、仙台藩が朝廷へ提出した建白書を見た容堂は、「これは磐渓が書いたものに違いない。その罪、断じて許すべからず」と断じ、これが戦後の磐渓逮捕につながった。また、下獄された磐渓を救うことも拒否したという。 松平春嶽 越前福井藩藩主。維新前後からの交遊関係があった。容堂とは異なり、晩年までその付き合いは続いている。 徳川慶頼 田安徳川家当主。松平春嶽は兄。磐渓とは明治初年から交遊が続き、1872年、磐渓は相生町の田安家別邸に転居している。また、息子は磐渓の門人となり、漢学の講義を受けた。 福沢諭吉 維新前からの付き合いで、従者として咸臨丸で渡米した際も磐渓に相談があったという。なお、福沢の学問師弟系譜を辿っていくと、適塾の緒方洪庵←中天游←大槻玄沢まで行き着く。また、息子の大槻文彦とも付き合いが続いた。 土方歳三 生前に面識があったかどうかは定かではないが、徳川軍が北上し、仙台に入っていた時期、主戦論者の磐渓と会っていた可能性は否定しきれない。また、高幡不動の土方歳三像に添えられている「殉節両雄之碑」の撰文は磐渓が行っている。
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