しもやけしもやけまつさかさまである
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冬 |
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前 書 |
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評 言 |
遺句集となった第十句集『水売』中の一句。『水売』のわずか二行のあとがきには「すべて、病中吟」としてあり、焼き直しの句が多い。掲句、前第九句集『地動説』にも掲載されている。どの焼き直しの句も推敲の末なのだろう助詞一つ、名詞一つ、表記ひとつなど、どこかが変換されている。しかしこの句に関しては一字一句変えられていない。そのままである。よほど気に入っていたに違いない、句集帯の自選十二句の中にもある。 しもやけしもやけというリフレインにより、寒さのため手、足、耳、頬などの血管が、局部的に麻痺して赤紫色になる現実のしもやけが、イメージのしもやけになり、さらにひらがな書きにすることでそれを別次元へと転位させている。つまり、しもやけであってしもやけでないしもやけ。つづくまつさかさまであるという不意の心象、感慨が、来し方におけるしもやけの経験を、その記憶を導き出す装置として新しい空間を造形。それは読み手の経験値との衝撃度により、それぞれに次のイメージを創造させ、確かな知覚と人間存在への極めて映像的、詩的打診となって直撃してくる。読み手は一句から受けるその気分を真摯に吸収し、咀嚼し、その方位を再構築することを迫られる。筆者には、頭から底のない悴む闇へ落下する人間のイメージが往来した。 かつて川名 大が論評した「(阿部の俳句)一句がつくり出す虚としての言語空間の場、情況の指示性、限定性を排除、拡散させ、言葉の伝統を払拭する。―中略― ひたすら、今という時点で働く感覚、気分、情動、衝動、発想、イメージ等々の刻々と生動するもの、いわばその現在のこころのかたちを定着しようとする。(俳句研究1994年11月号)」そのものの句である。 死の直前に到る最後の最後まで、今という現瞬間の「精神の季節」と「言葉の真実」を模索し続けた、作者最晩年の一作である。 |
評 者 |
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備 考 |
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