くらわんか船とは? わかりやすく解説

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くらわんか‐ぶね〔くらはんか‐〕【食らわんか舟】


くらわんか舟

(くらわんか船 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/11 06:08 UTC 版)

淀川三十石船の手前にくらわんか舟が描かれる(右下)
「京都名所之内 淀川」歌川広重天保5年〈1834年〉頃)[1]
料理を盛るのに使われたくらわんか碗

くらわんか舟(くらわんかぶね〈食らわんか舟[2]、食船[3]〉)とは江戸時代淀川を往来する大型船に近寄り、乗船客に飲食物を売っていた主に枚方地方の小舟のこと。貸食船[4][5](煮売船[3]〈にうりぶね〉[6])、茶船(煮売茶船[7][8])とも呼ばれていたが、くらわんか舟という俗称が定着した。

概説

淀川の定期船のうち過書船(かしょぶね)は、大坂天満橋八軒家船着場から京都の南、伏見豊後橋まで、淀川(101327)を、昼夜兼行で往来したが、荷物は200ないし300石積で、旅船は30石が普通であったことから「三十石船(さんじっこくぶね)」という乗り合い船が昼夜2便運行した[9]。途中の船着き場には岡場所が多く下船者が多いため、「途中下船は切符無効」の賃銀制度が設けられ、とくに枚方宿は一番の盛り場であった。

枚方で停船しようとする三十石船に鉤爪をかけて近づき[4]、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(全長5-7m[10]、2名ほど乗船)が「くらわんか舟」と呼ばれていた。船上に火床を置いて煮炊きし、ごんぼ汁[8]ゴボウ汁)、あん餅、巻きずし、酒などを売った[4]。「くらわんか」とは、この地方の方言で[8]「喰わないか」、「銭がないのでようくらわんか」(喰うことも出来ないくらい銭を持っていないのか)と乱暴に言った言葉である。昼夜を問わず三十石船に近づき、乗客に「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか舟」という名がついた[4]

汁椀などの食器は食後に返したが、器の数で料金を計算することから、支払いをごまかすために器を川に投げ捨てる客もあり、後にそれらのくらわんか椀が川底から発見され[11]、その素朴さと希少性により再評価された[4]

歴史

もともとは枚方宿より1 (約3.9km) ほど下流の対岸にあった柱本村(現高槻市柱本[7])が発祥といわれる[4]。同地の葉間家文書には、茶船・煮売船は元慶2年(878年)に始まるとあり、水上専売の特権を得たのは、柱本の船頭たちが大坂夏の陣などで徳川方の物資運搬や女人退路の舟渡しに協力するなどの功績によるとされる。伏見より大坂に至る淀川の食い物売りの営業特権を幕府から与えられ、その印として黒地に白の縦筋を染め抜いた川舟旗が与えられた。また義務として水上警護を任され、溺れた者があった場合は救助に努めなくてはならないため、逆艪(さかろ〈船を後ろへも自由に漕ぎ進められるようにを船の前部に取り付ける〉)を備えていた[4]

柱本の茶船は20艘あったが、寛永12年(1635年)にそのうちの1艘が、淀川筋の川船を支配する枚方の監視所の御用を務めるために柱本から枚方に移ったのをきっかけに、次第に枚方の茶船の勢力が増していき、柱本と枚方で争いが起こるほどになった。この際、地元の乱暴な言葉遣いのまま飲食を売ってもかまわないという不作法御免の特権も与えられたため、身分の高い人に対しても「くらわんか」と叫ぶことが許されており、淀川往来の名物となっていった。柱本・枚方以外で煮売船が出た場合は直ちに抗議して中止させ、それでも聞かない場合は町奉行か淀川筋支配の角倉家・木村家に訴えて差し止めた[4]

明治維新ごろには枚方の茶船は柱本の2倍になっていたが、淀川蒸気船外輪船[12])の登場で三十石船がなくなるとともにくらわんか舟も姿を消していった[4]。そして、淀川の水運が鉄道へと変わる明治ごろまで続いていたが消滅した。京阪電車開通後、明治末から大正の初めには、夏の余興に淀川でくらわんか舟の再現がなされ[4]1911年(明治44年)5月26日には皇族の文秀女王がたいそう楽しんでいる[13]が、数年で終了した[4]。しかし、今日にも「くらわんか」の名は残っており、淀川航路の復活と運航の再生がはかられている[14][15]

描かれた作品

さまざまな紀行文学に描かれ、東海道中膝栗毛にも「飯食はんかい。酒飲まんかい。サアサア、みな起きくされ。よう臥さる奴らぢゃな」などとがなり立てられた弥次が「イヤ、こいつらア、云はせておきゃア、途方もねえ奴らだ。横面張り飛ばすぞ」と立腹する場面がある。

烏丸光広はその声を「くらはぬかくらはんかにはあかねども喰ふ蚊にあくる淀の明ぼの」と詠んだ。大衆文学では、その起源について、徳川家康天正15年(1587年)6月の伊賀の難に付会させられ、「難波戦記」に、その由来が脚色された。

この流れをくむ水上惣菜業者は、各地で第二次世界大戦後まで残っていたと思われ、横溝正史推理小説トランプ台上の首』(1956年、事件発生は同年の東京の設定)にも事件の発見者として描かれている。

脚注

  1. ^ 歌川広重 京都名所之内 淀川”. 春季特別展 ぶらり浮世絵散歩 - 平木名品コレクション. 徳川美術館 (2016年). 2024年6月8日閲覧。
  2. ^ 食らわんか舟」『デジタル大辞泉』https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9F%E3%82%89%E3%82%8F%E3%82%93%E3%81%8B%E8%88%9Fコトバンクより2024年6月8日閲覧 
  3. ^ a b 食船」『精選版 日本国語大辞典』https://kotobank.jp/word/%E9%A3%9F%E8%88%B9コトバンクより2024年6月8日閲覧 
  4. ^ a b c d e f g h i j k 天野達彦「枚方くらわんか舟」(PDF)『関大』第227号、関西大学校友会、4頁、1974年11月15日http://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_7_113.pdf2024年6月8日閲覧 
  5. ^ 枚方の歴史”. 枚方信用金庫. 2024年6月8日閲覧。
  6. ^ 煮売船」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E7%85%AE%E5%A3%B2%E8%88%B9コトバンクより2024年6月8日閲覧 
  7. ^ a b くらわんか舟発祥の地”. 高槻市. たかつき歴史Web. 高槻市役所 (2022年8月25日). 2024年6月8日閲覧。
  8. ^ a b c 常設展示: 別棟”. 市立枚方宿鍵屋資料館. 鍵屋資料館. 2024年6月8日閲覧。
  9. ^ 大阪府の歴史散歩編集委員会 編『大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島』山川出版社〈歴史散歩 27〉、2007年、233頁。ISBN 978-4-634-24627-0 
  10. ^ 淀川と高槻のかかわり”. 高槻市立中央図書館. 2024年6月8日閲覧。
  11. ^ 大阪府 枚方: 水陸交通の要衝「枚方宿」”. このまちアーカイブス. 三井住友トラスト不動産. 2024年6月8日閲覧。
  12. ^ 淀川舟運の歴史”. 淀川河川事務所. 国土交通省 近畿地方整備局 淀川河川事務所. 2024年6月8日閲覧。
  13. ^ 枚方市史編纂委員会 編『朝日新聞記事集成 第4集』(枚方市、1977年)87頁。
  14. ^ 淀川舟運は枚方市と深い関わりがあります”. 枚方市 (2013年1月28日). 2024年6月8日閲覧。
  15. ^ 京阪電車の歴史的つぐない 伏見と大阪結んだ「三十石船」航路復活へ取り組み」『産経新聞産経新聞社、2018年4月24日。2024年6月8日閲覧。

関連項目

外部リンク



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