岩永義晴(いわながよしはる? ?-?)
明治初期、日本国政府は近代化の指導者として広範な分野のお雇い外国人を招聘する。それは、地図測量分野においても同じであった。工部省・海軍はイギリス人、陸軍はフランス人、農商務省はドイツ人などと国籍は異なるものの多くの外国人を招聘して地図測量技術の習得に努める。その後、主要機関は教科書の作成を行い独自の技術者養成にも着手する。陸地測量部では、修技所を開設し技術者の養成を開始する(明治21年)。その後、修技所は韓国人留学生を受け入れるほどとなり、2年間の教育を修了し初の外国人卒業生を送り出した(明治31年)。
岩永義晴は、その前年に修技所教官となる。その後、明治37年からは継続的に清国留学生が入所し、明治44年まで続けられ132名が卒業したという。
一方清国政府は、地図測量教育機関として陸軍部測絵学堂を北京、南京、広東、南昌、成都の各所に開設した。そのとき清国政府から招聘されて、この北京陸軍部測絵学堂に派遣されたのが岩永義晴陸地測量師らである(明治39年 1906)。彼らは、わが国測量官の外国招聘の始まりであり(明治38年、土方亀次郎が南京測絵学堂に派遣されている)、以後明治43年までの間、30数名が各省の測絵学堂に派遣された。
中国に招かれる以前の岩永義晴陸地測量師(陸地測量部)は、農商務省山林局に招かれて在籍していた(明治33年)。当時山林局では「国有林野測量規程」を定めて、国有林の三角測量など実施を計画していたが、測量技術者が不足していたことから林業講習所に、多角測量科、三角測量科、製図科の3科を設置して技術者の養成を急ぐことになった。そこへ、陸地測量部修技所教官であった岩永測量師が農商務省兼務として派遣されたのである。
結果岩永義晴は、陸地測量部技術者のほか、清国政府の測量技術者、そして初期の国有林野の測量技術者の養成にもあたることになった。
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