『第三帝国』の発刊
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秋田中学中退後、聖学院神学校に入り、横手で牧師となったが、1年足らずでやめ、秋田魁新報社の記者となる。1912年(明治45年)に上京して『新公論』の編集にたずさわった。同年12月に第3次桂内閣が成立すると犬養毅や尾崎行雄を中心に第一次護憲運動が起こり、翌1913年(大正2年)1月25日には秋田県の県公園(いまの千秋公園)で秋田市青年会主催の憲政擁護の県民大会が開かれた時、この大会に参加している。 1913年10月10日、『万朝報』記者であった茅原華山に新雑誌創刊の話をもちかけ『第三帝国』を創刊した。「第三帝国」とは、イプセンの史劇に由来し、「霊肉一致」をもたらす新文明を表していた。当初この雑誌は、「小日本主義」 を唱えて植民地放棄を訴え、また、普通選挙請願運動の呼びかけ など当時においてはもっとも尖鋭な「民本主義」的な立場を展開した。『第三帝国』は、大場茂馬らの法律学者、浮田和民らの政治学者のみならず、堺利彦、大杉栄らの社会主義者や平塚らいてう、伊藤野枝ら青鞜社の女性達も執筆し、また地方青年らによる投稿欄には若き日の金子洋文や尾崎士郎らの名前も見えるなど、まさに大正デモクラシーを代表する雑誌となった。鈴木茂三郎、宇野弘蔵らも読者であった。 1915年(大正4年)の茅原の衆議院議員選挙への立候補と落選、そして、この落選を契機とする茅原の「新日本主義」や「新東洋主義」への思想的変化によって、次第にその影を潜めるとともに、茅原との対立はやがて法廷闘争にまで至った。
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