『大清会典』翻訳と長崎出張とは? わかりやすく解説

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『大清会典』翻訳と長崎出張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:01 UTC 版)

深見有隣」の記事における「『大清会典』翻訳と長崎出張」の解説

享保6年1721年)から5年間をかけて、清朝編纂された総合法典大清会典』を父とともに翻訳(父は享保7年1722年)没)、『大清会典和解』を編纂した。 『大清会典』は、清王朝制度典礼集めた書籍会典)で、清代通じて5回編纂されている。紅葉山文庫には享保5年1720年)に『大清会典』(『康煕会典』の刊本162巻)が納本されており、徳川吉宗はこれに深い関心示して手許近く置いていたようである。 『徳川実紀』(『有徳院殿実記附録』巻十一によれば吉宗深見玄岱有隣親子に『大清会典』の翻訳命じたこのころ吉宗側近学者たちにさまざまな研究課題与えており、深見父子の『大清会典和訳もその一環であった。玄岱の中国語能力の高さには定評があったが、その玄岱をもってしても、法制に関する知識が必要で、なおかつ膨大な大清会典』の翻訳難し作業であったようである。 享保6年1721年10月有隣は「唐国阿蘭陀国筋の御内用」のために江戸出発して長崎出張した長崎在留中国人たち(儒医孫輔斎や沈爕庵らと考えられる)に問い合わせながら『大清会典』の翻訳すすめた長崎滞在結局足掛け5年に及ぶこととなった長崎滞在中の有隣は、紅葉山文庫のための書籍収集にも携わっていたほか、清朝の諸制度に関する吉宗質問長崎滞在中の中国人佩章(福建省出身)に問い合わせる役割一部担った吉宗質問は、荻生北渓から長崎有隣伝えられ有隣通訳を介して佩章に問い合わせた)。 享保17年1732年)の享保の大飢饉を受け、備荒用作物としてサツマイモ甘藷甘蔗)の栽培徳川吉宗建言したのは有隣であるという(#甘藷と深見有隣参照)。

※この「『大清会典』翻訳と長崎出張」の解説は、「深見有隣」の解説の一部です。
「『大清会典』翻訳と長崎出張」を含む「深見有隣」の記事については、「深見有隣」の概要を参照ください。

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