『大清会典』翻訳と長崎出張
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「深見有隣」の記事における「『大清会典』翻訳と長崎出張」の解説
享保6年(1721年)から5年間をかけて、清朝で編纂された総合法典『大清会典』を父とともに翻訳(父は享保7年(1722年)没)、『大清会典和解』を編纂した。 『大清会典』は、清王朝の制度や典礼を集めた書籍(会典)で、清代を通じて5回編纂されている。紅葉山文庫には享保5年(1720年)に『大清会典』(『康煕会典』の刊本、162巻)が納本されており、徳川吉宗はこれに深い関心を示して手許近くに置いていたようである。 『徳川実紀』(『有徳院殿御実記附録』巻十一)によれば、吉宗は深見玄岱・有隣親子に『大清会典』の翻訳を命じた。このころ吉宗は側近学者たちにさまざまな研究課題を与えており、深見父子の『大清会典』和訳もその一環であった。玄岱の中国語能力の高さには定評があったが、その玄岱をもってしても、法制に関する知識が必要で、なおかつ膨大な『大清会典』の翻訳は難しい作業であったようである。 享保6年(1721年)10月、有隣は「唐国及阿蘭陀国筋の御内用」のために江戸を出発して長崎へ出張した。長崎在留の中国人たち(儒医の孫輔斎や沈爕庵らと考えられる)に問い合わせながら『大清会典』の翻訳をすすめた。長崎滞在は結局足掛け5年に及ぶこととなった。長崎滞在中の有隣は、紅葉山文庫のための書籍収集にも携わっていたほか、清朝の諸制度に関する吉宗の質問を長崎滞在中の中国人朱佩章(福建省出身)に問い合わせる役割の一部を担った(吉宗の質問は、荻生北渓から長崎の有隣に伝えられ、有隣は通訳を介して朱佩章に問い合わせた)。 享保17年(1732年)の享保の大飢饉を受け、備荒用作物としてサツマイモ(甘藷、甘蔗)の栽培を徳川吉宗に建言したのは有隣であるという(#甘藷と深見有隣参照)。
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