甘藷と深見有隣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:01 UTC 版)
『徳川実紀』(『有徳院殿御実記附録』巻十七)によれば、吉宗は当初、砂糖の原料(当時、砂糖は中国からの輸入に依存していた)として甘藷に関心を寄せていた。享保17年(1732年)、西国で大飢饉(享保の大飢饉)が発生した際、吉宗は有隣に長崎付近での飢饉の状況を尋ねた(有隣の父の玄岱(新右衛門貞恒)は晩年に長崎に居住していた)。これに対して有隣は、長崎では甘藷が食用にされており、大飢饉でも大いに役立ったと述べて、栽培法を書いたものを吉宗に提出した。またこの頃、青木文蔵敦書(青木昆陽)が論考を提出し、甘藷栽培に長けた長崎の「鉄工」平野良右衛門が江戸に上って来たため、有隣が青木昆陽と平野良右衛門を推挙し、吹上の庭で甘藷を栽培させ、その成績が良かったために近国の代官にもつくらせるようになったという。 延享(1744年 - 1748年)の初めころ、吉宗は甘藷の栽培方法・砂糖の製造方法を知る一環として、書物奉行となっていた深見有隣に『天工開物』や中国の府志・県志の調査を命じたという(このほか、日本国内の甘藷栽培先進地である薩摩藩での方法を学ぼうとしたり、長崎に来た中国人商人から栽培方法を聞き取ろうとしている)。有隣の甘藷に関する研究はのちに『甘蔗考』としてまとめられた(延享元年(1744年)編纂、翌年に増補)。この書籍は、福建省の府志類から、甘蔗栽培と製糖についての記事(『庶物類纂』に収録されていないもの)を蒐集したものである。
※この「甘藷と深見有隣」の解説は、「深見有隣」の解説の一部です。
「甘藷と深見有隣」を含む「深見有隣」の記事については、「深見有隣」の概要を参照ください。
- 甘藷と深見有隣のページへのリンク