『ル・シッド』論争とは? わかりやすく解説

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『ル・シッド』論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)

ピエール・コルネイユ」の記事における「『ル・シッド』論争」の解説

その翌年コルネイユ彼の代表作といえるル・シッド Le Cid 』を書いた元になったのはスペイン劇作家ギジェン・デ・カストロ・イ・ベルビス(1569年 - 1631年)の書いたシッド青春』Mocedades del Cid1621年一説には1599年とも)で、中世スペイン武人ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の伝説基づいている。 1637年オリジナルの版では「悲喜劇」という副題がついていた。古典的な悲劇/喜劇区分け意図的に無視した、という表明だった。『ル・シッド』は記録的な大ヒットとなった。しかし、激し批判の的となった俗に言う『ル・シッド』論争である。リシュリュー卿のアカデミー・フランセーズは劇の成功認めはしたが、その劇には劇の鉄則から外れていると主張した。劇の鉄則である「時・場・筋の三一致の法則」(劇は1日の間、1つの場所で、1つ行為だけで完結しないといけない)が守られていないというのである。まったく新しい形式の『ル・シッド』は、国家文化活動支配しているという主張具現化でもあった。リシュリューアカデミーに、これまで通りフランス語純化統一させる一方で、『ル・シッド』の分析命令した一方でヒロイン行動不道徳だと、パンフレットによる糾弾キャンペーン繰り広げられた。こうした攻撃は、劇場道徳的教育の場であるという古典的な理論基づいたのだった。『ル・シッドに対してアカデミー勧告は、ジャン・シャプランの本『悲喜劇ル・シッド対すアカデミー・フランセーズ意見』Sentiments de l'Académie française sur la tragi-comédie du Cid1638年)に詳しい。また、著名な作家ジョルジュ・ド・スキュデリーは『ル・シッドについての批判Observations sur le Cid1637年)という劇の中で厳しい批判行った。 もはや論争が手には負えないものになり、コルネイユルーアンに戻ることにした。彼が作品不評のたびに筆を折ることはしばしばだったが、この時がその最初だった。

※この「『ル・シッド』論争」の解説は、「ピエール・コルネイユ」の解説の一部です。
「『ル・シッド』論争」を含む「ピエール・コルネイユ」の記事については、「ピエール・コルネイユ」の概要を参照ください。

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