『ル・シッド』論争
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「ピエール・コルネイユ」の記事における「『ル・シッド』論争」の解説
その翌年、コルネイユは彼の代表作といえる『ル・シッド Le Cid 』を書いた。元になったのはスペインの劇作家ギジェン・デ・カストロ・イ・ベルビス(1569年 - 1631年)の書いた『シッドの青春』Mocedades del Cid(1621年。一説には1599年とも)で、中世スペインの武人ロドリゴ・ディアス・デ・ビバール(エル・シッド)の伝説に基づいている。 1637年のオリジナルの版では「悲喜劇」という副題がついていた。古典的な悲劇/喜劇の区分けを意図的に無視した、という表明だった。『ル・シッド』は記録的な大ヒットとなった。しかし、激しい批判の的となった。俗に言う『ル・シッド』論争である。リシュリュー卿のアカデミー・フランセーズは劇の成功は認めはしたが、その劇には劇の鉄則から外れていると主張した。劇の鉄則である「時・場・筋の三一致の法則」(劇は1日の間、1つの場所で、1つの行為だけで完結しないといけない)が守られていないというのである。まったく新しい形式の『ル・シッド』は、国家が文化活動を支配しているという主張の具現化でもあった。リシュリューはアカデミーに、これまで通り、フランス語を純化・統一させる一方で、『ル・シッド』の分析を命令した。 一方で、ヒロインの行動が不道徳だと、パンフレットによる糾弾キャンペーンも繰り広げられた。こうした攻撃は、劇場は道徳的教育の場であるという古典的な理論に基づいたものだった。『ル・シッド』に対してのアカデミーの勧告は、ジャン・シャプランの本『悲喜劇ル・シッドに対するアカデミー・フランセーズの意見』Sentiments de l'Académie française sur la tragi-comédie du Cid(1638年)に詳しい。また、著名な作家ジョルジュ・ド・スキュデリーは『ル・シッドについての批判』Observations sur le Cid(1637年)という劇の中で厳しい批判を行った。 もはや論争が手には負えないものになり、コルネイユはルーアンに戻ることにした。彼が作品の不評のたびに筆を折ることはしばしばだったが、この時がその最初だった。
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