『ル・シッド』論争への返答とは? わかりやすく解説

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『ル・シッド』論争への返答

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 09:08 UTC 版)

ピエール・コルネイユ」の記事における「『ル・シッド』論争への返答」の解説

コルネイユ劇作復帰したのは1640年のことだった。『ル・シッド』論争で、コルネイユは、古典的な劇のルール細心の注意を払うことにした。その証拠はさっそく作品現れる。『オラースHorace1640年リシュリュー献呈)、『シンナCinna1641年)、『ポリウクト』 Polyeucte (1643年はいずれ古典的な悲劇だった。この3作と『ル・シッド』は、一般にコルネイユ四大悲劇呼ばれている。さらにコルネイユアカデミー批判応えるため、三一致の法則に近づけた『ル・シッド』の複数改訂版1648年1660年1682年)も作った。そこにはもう「悲喜劇」の副題はついておらず、代わりに悲劇となっていた。 1640年代中頃には、コルネイユ絶大な人気を誇るようになっていて、最初の戯曲集も出版された。1641年にはマリー・ド・ランペリエールと結婚7人の子供もうけた1640年代中頃から後半にかけて、コルネイユ多く悲劇書いた。『ポンペイの死』 La Mort de Pompée (1644年初演)、『ロドギューヌ』 Rodogune (1645年初演)、『テオドールTheodore1646年初演)、『エラクリウス』 Héraclius (1647年初演)。さらに喜劇も1本書いている。『嘘つき男Le Menteur1644年)である。 1652年、『ペルタリト』 Pertharite が不評で、落胆したコルネイユは再び筆を断ったその代わりトマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』の翻訳没頭し、それは1656年でかかったコルネイユ劇作戻ったのは、1659年になってからで、その時書かれた『エディップ』 Oedipe はルイ14世に大変気に入られた。その翌年、『劇的に関する3つの会話Trois discours sur le poème dramatique という本を出した。この本は『ル・シッド』論争対す返答のように見える。本の中で、彼は古典劇鉄則重要性説きながら、同時にル・シッド』でその鉄則破ったことを正当化している。彼はこう主張する三一致の法則よりどころであるアリストテレスの劇の指針はけっして文字通りに読むものではない、解釈は自由である。古典劇鉄則確かに間違ってはいないが、だからといってスタイル革新専制的に抑圧すべきではない、と。

※この「『ル・シッド』論争への返答」の解説は、「ピエール・コルネイユ」の解説の一部です。
「『ル・シッド』論争への返答」を含む「ピエール・コルネイユ」の記事については、「ピエール・コルネイユ」の概要を参照ください。

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