「青邱図」の製作原理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 08:32 UTC 版)
「青邱図」は崔漢綺の「青邱図題」によれば次のような製作原理で作られた。 地図製作は画野分州から始める。画野分州では山脈と水系により地域を分けた。 天文観測による経緯線の決定について、崔漢綺は「空の1度は地の200里になり、また時間の4分に相当する」と述べた。 1791年に天文を観測した結果として、地形・位置・方位などを校正した。これは1713年に清の使臣何国柱一行が漢陽を訪れ、象限大義を用いて漢城府を鍾路の極高を実測し北緯37度39分15秒、北京順天府を基準にして漢陽が偏東10度30分という実測値を得た。これを基礎に正祖が1791年に「輿地図」に立脚し8度の経緯度を量定させた。これにより8度の分幅と全国の州の分表が自由自在になり、実際の姿と大きく違わない地図を描くことができるようになった。「輿地図」はいろいろあるが鄭喆祚・黄燁・尹鍈が編纂した「輿地図」が特に優れており、金正浩はその地図を参考に「青邱図」を作った。 従来の地図の弊害を指摘した。鄭尚驥が指摘したように紙の大小に合わせて334の州県を等しく描いたために小さな行政区域は広がり、広い行政区域は狭まってしまった。金正浩はこれに留意し、全国を同じ比率に製図することで縮尺比例が整然となり州県の分合が可能になった。 裴秀の六体を入れ、地図製作の原理を説明した。西晋の裴秀は「禹貢九州地図」を書いた地理学者であり、政治家である。裴秀が中国の地図学の基礎を築いたのだが、地図製作の6つの原理を提示した。 1.分率:地形の東西南北の幅員 2.準望:彼の地と其の地の地形を理解する方位 3.道里:彼の地と其の地の距離 4.高下:地形の高低 5.方邪:地形の特徴や歪み 6.迂直:地形の凹凸や湾曲
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