「異端」として排斥されていない信念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:45 UTC 版)
「闘技者トマスの書」の記事における「「異端」として排斥されていない信念」の解説
ナザレのイエスの説いた教えは、正統的教会によって、おおむね下記のように教義化した。 イエスキリストは、処女マリアから生まれた神の一人息子であると信じる。 イエスを救い主と信じる人は、神の国が到来したら、新しい命がもらえて罪から救われる。なぜなら、罪がないナザレのイエスは、死刑になったが、死んでから三日たってからまた生き返った。そして彼は天に昇って行って、神の右に座ったからである。そう信じる者は、救われる・・・・。 こうした他力救済的な宗教思想にとっては、闘技者トマスの、「自己を知った者は同時にすでに万物の深遠について認識に達しているからである」というような「人間を救済する自己認識」の信念は異色のものであると言える。こうした自力救済的な思想は、正統的教会にとっては異端として退けられるべきものであると考えられる。しかし、岩波書店『ナグ・ハマディ文書 Ⅲ 』によれば、「闘技者トマスの書」は、正統的教会の、いわば外延をなした修道者に向けて編まれたものと思われるとされていて、その主な内容であるところの、欲望に対する闘争は、キリスト教的な禁欲思想をつらぬくものとされている。 自力救済的な思想が異端とされなかった理由としては、ナザレのイエスの教えの中には、元々、心の中の悪に対しての認識を深めることが要求されていたことがあげられる。人の心の中から出てくる行為や想念については、淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、奸計、好色、よこしまな眼、瀆言、高慢、無分別などがあげられている。マタイ15:16には、「口の中に入ってくるものは人間を汚さない」というイエスの認識を全く理解できなかったペテロが、質問をしてイエスに叱責されるというエピソードが載っている。その時に、イエスはペテロに対して、自分の弟子であるのに、「今なお悟りがないのか。」と指摘している。ここの箇所からわかることは、ナザレのイエスは、自分の心の中の悪を自覚できるようになることは、一種の悟りであるという自力救済的な教えを説いていたということである。これは、「自己を知った者は同時にすでに万物の深遠について認識に達しているからである」という本書の言葉に、つながっているようにも見える。また、欲情を覚えてしまうものは、心の中ですでに姦淫をしたのである、という内面的な悪想念についての認識を促すと思える教えも存在している。 ナザレのイエスにとっての救済とは、罪ではなく、悪よりの救済であった。そのように見るならば、グノーシス主義に影響を受けて変化したキリスト教もあれば、真の知識に達したナザレのイエスの直伝を受けて、自己認識を深めていったことで、グノーシス主義と見做されて、異端として締め出された者もいたという見方もできる。
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