「画家の王」とは? わかりやすく解説

「画家の王」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 07:29 UTC 版)

ハンス・マカルト」の記事における「「画家の王」」の解説

マカルトは「画家の王(Malerfürst)」と呼ばれ享受した名声と富は、画家としてはピーテル・パウル・ルーベンス以来、最高のものであった。そのルーベンス生誕300年記念して制作したカール5世のアントワープ入城』は、1878年初め数日のうちに34000人 もの見物客集めたという。 マカルトケルントナー通り面した「カフェ・シャイドル」の常連であった。このカフェマカルト見たヘルマン・バールは、次のように証言している。「ヴェネチア・スタイルの黒ひげ小男が、カフェ・シャイドルの窓際の席に着きチェス興じていると、ケルントナー通り通行毎日おびやかされた」窓の向こうマカルト見物しようとする人々カフェの前の道が混雑したという、マカルト人気ぶりを示すエピソードである。 マカルトウィーン壮大な建築物装飾を最も多く手掛けたであろう推測されている。マカルト時代の寵児だったが、しかし彼に対す批判存在しないわけではなかった。1873年から1876年にかけて、マカルト同じくウィーン美術アカデミー教授だったアンゼルム・フォイエルバッハマカルトのことを、デッサン配色法もなっていない、誰の体にも合わない洋服仕立て屋である、などとこき下ろした。 マカルト祝祭行列ドイツ語版)も参照1879年、ウィーンアカデミーの教授任命され同年4月27日皇帝夫妻銀婚式パレードプロデュース手掛けた。これがマカルト絶頂期であったウィーン芸術家協会から派遣され五名の代表のうち、マカルト行列全体デザイン演出担当した歴史主義建築立ち並ぶリングシュトラーセを、マカルト考案した豪華な山車交えて16世紀風の衣装に身を包んだ人々が行進するさまは、まるで一幅歴史画を見るようであったという。パレード大成功終わり、その評判遠く新世界にまで伝えられた。 『五感フランス語版)』(Dienf Sinne) 『カール5世のアントワープ入城』(Der Einzug Karls V in Antwerpen1878年 マカルトによる祝祭行列デザイン一例1879年キャンバス油絵

※この「「画家の王」」の解説は、「ハンス・マカルト」の解説の一部です。
「「画家の王」」を含む「ハンス・マカルト」の記事については、「ハンス・マカルト」の概要を参照ください。

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