「番狂わせ」演じる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 09:45 UTC 版)
1962年度、早大は関東大学ラグビー対抗戦(以下、対抗戦)において、二部に相当するBブロック転落を余儀なくされたシーズンを迎えた。低迷するチーム事情をかんがみ、大西鐡之祐が監督に就任、そして同年度の主将に木本が命じられた。『大西・木本体制』で挑んだ1962年度シーズン、早大はBブロックで完全優勝を果たした後、12月2日の早明戦で、北島治彦(北島忠治の息子)が主将を務める対抗戦Aブロック優勝の明治大学(以下、明大)を17-8で破るという番狂わせを演じた。これを期に、対抗戦は同年限りでABブロック制を廃止することになった。 卒業後、横河ヒューレット・パッカード(現 日本ヒューレット・パッカード)に入社。1969年、第1回のアジアラグビーフットボール大会の日本代表選手に選出され、同大会で2試合に出場したものの、いずれもキャップ対象試合でなかったため、代表キャップは獲得していない。同年、早大監督に就任したが、1シーズンで退任した。ちなみにその当時の監督時代に、入部を躊躇っていた宿澤広朗を入部させている。
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