神田上水 神田上水の概要

神田上水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:38 UTC 版)

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神田上水

水道橋駅附近にある神田上水の碑文
延長 約63km
取水 井之頭池
東京都三鷹市井の頭1丁目)
合流 -
流域 東京都
備考 1901年明治34年)に廃止
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小石川上水

神田上水は1590年天正18年)に徳川家康の命を受けた大久保藤五郎(忠行、? - 1617年)によって開かれた。しかし、大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で、この上水道がその後発展・拡張したのが神田上水といわれている。

大久保藤五郎はこの功により家康より「主水」の名と「山越」と称される名馬を賜った。また、主水の名については、家康から水が濁ってはならないから、「モンド」ではなく「モント」と唱えるよう命じられた。

小石川上水の詳細は不明で、その流路及び規模に関しても定かではない。『東京市史稿 水道篇第一』には小石川上水(小石川水)が後の神田上水に拡張発展したと記している[1]。小石川上水の開設について詳しく記述されている文献は『校註天正日記』[2]である。

(天正十八年七月)十二日くもる。藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉ハる。藤五郎ハ菓子司大久保主水忠行ノ初名ナリ。忠行東照公ノ旨ヲ承ケ、始テ玉川ノ水ヲヒキテ、小石川ノ邊ニ達セシト云ウ。是江戸水道ノ權輿ナリ。然レトモ此水路ノコト、上水記以下終ニ明解ヲ得ズ。旧説ニ玉川ヲ引クトアルハ、後時玉川上水ノ成リシヨリ相混セシモノニテ、本ヨリ謬リナリ。今下文十月四日、十二日ノ條ト相参シテ之ヲ細考スルニ、此水道ハ乃今ノ神田上水是ナリ。蓋当時此水道ヲ設クルトテ、目白台ノ下ニ堰ヲ築キ、(関口ノ名モ実ニ是ヨリ、起リテ、元和寛永ノ間ニハ已ニ村名トナレリ)高田川ヲ壅キテ其水ヲ導キ、小日向小石川湯島神田ノ台下ニ沿テ、委蛇東流シ、以テ小川町ノ邊ニ通セシナルヘシ。其頃ハ未、外郭ハ設モナク、小石川ノ水、直ニ平川ニ注キシトキノコトナレハ、下文ニ小石川ノ末トアルハ、小川町ノ邊ナルヘシ。而シテ慶長見聞集ニ、神田ノ明神山(元和ノ初マテ、駿河台観音坂ノ西ニ明神社アリ。)ノ岸ノ水ヲ東北ノ町ヘ流シ云々ハ乃此委流ナルベシ。

(天正十八年十月)四日くもる。 (中略)小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほとかゝる。

(上略)藤五郎ノ引水ハ、乃大久保ノ上水ナリ。関口ヨリ導キテ小川町ニ通セシコト故ニ、僅三数月ノ間ニ辧セシナルヘシ。後人或ハ大久保ノ上水終ニ成功ナカリシカト疑フモノハ非ナリ。(下略)

『校註天正日記』

しかし、『校註天正日記』は偽書であるといわれており、信憑性に欠けるところがある[注釈 1]。しかも、家康が江戸入りしたのは1590年8月であり、同年10月に上水が開設したとなればあまりにも手際が良すぎる感も否めない。

『校註天正日記』の他にも『御用達町人由緒』、『武徳編年集成』、『新編武蔵風土記稿』[3]にも大久保藤五郎が天正18年に上水を開設したことが記されている。

一、先祖   宇津左衛門五郎忠義五男

   初代   大久保藤五郎忠行

         後改主水

(上略)関東迄御共仕、知行三百石被下置候。御入国之節、於江戸水之手見候様ニ被仰付、小石川水道見立候ニ付、爲御褒美、主水と申名被下置候。

『御用達町人由諸』

(大久保)忠行ハ則左衛門五郎忠茂ガ五男ナリ。

(中略)天正庚寅武陽御入国ノトキ、用水ヲ窺フテ言上スヘキ旨命ゼラル所ロ、多摩川ノ清水ヲ小石川筋ヨリ是ヲ通ズベシト、其ユヘヲ委シク演ル。(下略)

武徳編年集成

(上略)是ヲ多摩川上水ト云。濫觴ヲ尋ヌルニ、今ノ御菓子司、大久保主水先祖大久保藤五郎忠行トイヒシモノ、(中略)天正十八年御入国ノトキ、御旨ヲウケテ、初メテ用水ヲ開キ、多摩川ノ清泉ヲ小石川筋ヘ達セシニヨリテ、名ヲ主水トメサレシヨシ。然レトモコノ時ノ水路ハ、何レナリヤ今詳カニ辨シカタシ。

新編武蔵風土記稿

このように信用性が問われている『校註天正日記』の他にも天正18年に上水開設を促す史料がある(『武徳編年集成』及び『新編武蔵風土記稿』にみえる多摩川の水を小石川に流すということは誤りである。)。しかし、これらの史料によって天正18年説が断定されたとは言い切れず、慶長年間に上水が開設されたと記す史料も幾多ある。

上水の濫觴

御入国後、天正文禄の頃、御目論見在て、慶長年中より水道出来、神田上水と号する。(中略)

『武蔵名所図会』[4]

見しは昔、江戸町の跡は今大名町になり、今の江戸町は、十二年以前(慶長八年)まて、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。町ゆたかにさかふるといへとも、井の水へ塩さし入、万民是を欺くと聞しめし、民をあはれみ給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へながし、山王山本の流れを西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。此水をあちはふるに、たゞ是薬のいづみなれや、五味百味を具足せる、色にそみてよし、身にふれてよし、飯をかしひよし、酒茶によし、それ世間の水は必法性に帰すと云ふ。此水大海にいらずして悉く人中に流入、元来この水は、明神山王の御方便にて、氏人をあはれみわき出し給ふといへ共、人是をしらず、其上此流の中間に悪水あつて、流をけがすにより、徒に水朽ぬ。然に今相がたき君の御めぐみにより、中間の濁水をのぞき去て、清水を万人にあたへ給ふ。

慶長見聞集[5]

上記の二つの文献には慶長年間に上水が開設したと記述されている。

しかし、『東京市史稿 水道篇第一』にはこの記述を上水の開設とはせず、(小石川)上水を増設したと解釈している。これに従って、この史料(特に『慶長見聞集』)は慶長年間には既に上水があったことを証明している記述と思われることが多い。

だが、天正18年開設説を否定し、家康が大久保藤五郎に上水について意見を述べるよう命じたに過ぎないとし、『慶長見聞集』の記述に沿って、慶長のころまで江戸には水道はなかったという説も存在する[6]

概要

神田上水は井之頭池(三鷹市井の頭1丁目井の頭恩賜公園内)を発する上水である。いつごろから井之頭池を水源とするようになったかのは定かではないが、慶長年間以降と推定されている[注釈 2]。井之頭池を見立てたのは大久保藤五郎と内田六次郎の二人が挙げられている。どちらかであるかは断定できないが、内田家はその後、1770年明和6年)に罷免されるまで代々神田上水の水元役を勤めている。

井之頭池は古くは狛江といわれ、かつては湧水口が七ヶ所あったことから「七井の池」とも呼ばれていた。井之頭と命名したのは2代将軍徳川秀忠もしくは3代将軍徳川家光ともいわれているが、家光が命名したという説が有力である。『東京市史稿 水道篇第一』には附記として井之頭池の命名の由来を記している[8]

(前略)井ノ頭ハ将軍ノ命名スル所ニシテ、旧来ノ称ニ非ストスルハ一也。而シテ井ノ頭ノ命名ヲ爲シタル者ヲ、或ハ台徳院秀忠ナリトシ、或ハ大猷院家光ナリトス。就中井之頭略縁記「寛永六年の春、大猷院様御成被爲遊、此湖名御尋有たる時、親の井、又は七井之湖と申す由、言上仕し處、城内御茶の水、其餘流を分て、府内の飲料水たれば、向後は井の頭の池と称すへき旨、御上意被仰出、池邊の辛夷の樹に、御手つから御小柄を以て、井之頭と大字に御銘被爲遊、以後神田上水井之頭辧天池と触占され改称す。今に於て此池井之頭と称す。則御彫付の文字を切抜き、第二の重宝として、今猶内陣に秘蔵す。」と伝へ、(中略)武蔵通志ノ如キモ、亦「堂(井の頭弁天堂)前辛夷樹アリ、寛永六年己巳将軍徳川家光此ニ遊猟シ、池水ノ上水原頭タルヲ以テ、樹ヲ白シテ親ラ井之頭ノ字ヲ刻ス。後其樹枯槁シ、其木片ヲ削テ、是ヲ大盛寺ニ蔵ス。今遺蘖既ニ合拱ニ及ブ。」ト記スヲ一般ニ伝フルノ説ナリトス。(下略)

家光が「井之頭」と刻んだとされる辛夷の樹皮は大盛寺が宝物として池の近くの弁天堂に所蔵していたが、1924年大正13年)の火災で弁天堂とともに焼失してしまい現存していない。また、井之頭池の湧水を「御茶ノ水」というがこれは徳川家康が名付けたとされている。家康が慶長年中にこの地を訪れ点茶の水としてこの湧水を使ったことから命名したという[注釈 3](ギャラリー1参照)。

井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川(ギャラリー2参照)と淀橋玉川上水の分水(神田上水助水堀)、更に妙正寺川(ギャラリー3参照)を併せて小石川の関口大洗堰に至る。

関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園、〔文京区後楽1丁目〕、ギャラリー7参照)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した。1965年昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一にした。)。関口大洗堰が設置された年代はわかってはいない。『水戸紀年』[9]によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年寛永6年)とあるから、それ以前に建設されたのではないかと思われる。の規模については『新編武蔵風土記稿[10]に紹介されている。

堰 神田上水ト江戸川ノ分水口ニアリ。大洗堰ト号シ、御普請所ナリ。石ニテ築畳ミ、大サ長十間(約18m)、幅七間(約12.6m)ノ水、水口八尺余(約2.42m)、側ニ水番人ノ住セル小屋有リ。 — 『新編武蔵風土記稿』関口町在方分[11]

この記述から巨大な石作りの建造物であったことが窺える。この大洗堰があったため関口という地名が起こったという[11]。関口大洗堰は流水が大滝となって落ちてくる様子が壮大で『江戸名所図会』に「目白下大洗堰」として紹介されるほどの名所であった(ギャラリー4参照)。1937年昭和12年)に江戸川の改修の際に取り壊され、かつて堰があった跡には大滝橋が架けられた(ギャラリー5参照)。付近の江戸川公園(文京区関口2-1)にわずかに石柱の一部が保存されているのみである(ギャラリー6参照)。

神田上水の流路は『東京通誌』[12]に、給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。

神田上水 源ヲ北多摩郡三鷹村(牟礼)井頭池ニ発シ東流東多摩郡高井戸村(久我山)ニ入リ、同村(上高井戸下高井戸)ヲ経テ、和田堀之内村(永福寺)ニ至リ、永福寺池ノ下流ヲ併セ、同村(和泉和田)ニテ善福寺川ヲ併セ中野村(雑色・本郷)ヲ経テ、南豊島郡淀橋町(角筈)ニ至リ、北ニ折レ、同村(柏木)淀橋ニ至リ、多摩川支流(南豊島郡代々木ニ於テ分脈シ、角筈熊野神社ノ東ヲ過ギ、此ニ至ル。濶九尺)ヲ併セ、東流高田村ヲ経テ、小石川区関口町大洗堰ニ至リ、石堰ヲ設ケ、左右ニ分レ、右ハ江戸川トナリ左ハ即上水ナリ。源頭ヨリ此ニ至ルヲ野方堀ト称ス。上水ハ関口駒井町ヲ経テ桜木町ニ至リ、陰溝トナリ、小日向水道町・水道橋町・小石川町砲兵工廠に入リ、後楽園ノ背ヲ過ギ、工廠ノ東万年樋(万治年中神田川増鑿ノ時、其上ニ木樋ヲ架シ、万年樋ト云フ)ニ至ル。長源頭ヨリ砲兵工廠ニ至ル、凡五里二十六町拾五間、潤上流二間ヨリ四間ニ至リ、下流八間ヨリ拾弐間許ニ至ル。大洗堰以下潤三間。万年樋ハ神田川ノ上ニ架シ、神田区猿楽町ニ入リ、石樋ヲ通シ、神田橋外ニ至リ左折シ、外溝ニ沿ヒ、本町壱丁目ニ至リ、換ルニ木樋ヲ以テシ、各所ニ分脈シ、又支流ヲ設ケ、縦横之ヲ疏通ス。概ネ神田柳原両国浜町大川端永代橋以西及神田橋内外・鍛殆橋外ヨリ京橋以北ニ至ルマデ引用セザルナシ。陰樋小石川ヨリ以下延長拾六里弐拾九町拾弐間ニ及ブ。(下略)

『東京通誌』

神田上水

(中略)今流末広大にして小川町・神田・柳原・両国に至る南手一円又一橋より大手前・龍の口川通り、北手神田橋外より鍛冶橋外・比丘尼橋川・本材木町通り・江戸橋一円小網町通り永代迄の内北手一円、すべて懸らざる所寸地もなし。 — 『御府内備考』巻之六御曲輪内之四上水[13]

水戸屋敷に入った上水は邸内の飲料水や生活用水及び庭園の池水に使われ屋敷を出る。水戸屋敷を出た上水は御茶ノ水の懸樋(神田上水懸樋水道橋[注釈 4](ギャラリー8・9参照)で神田川を横切り、まず神田の武家地を給水する。そこから三手に分岐し、一つは神田橋を経て、道三堀北側の大名屋敷に、もう一つは神田川北岸の武家地に、そして最後の一手は神田川南岸の武家地及び町人地に給水する。 町人地に向かう水は二手に分かれ、一方は日本橋北側・内神田を、もう一方は日本橋南側を給水していた。

神田上水による給水順次は武家地が優先で、残りの水を町人地へ給水している。これは江戸期の初期の上水道によく見られる傾向であるとされている[14]。後年になると武家地と町人地を分けて系統化する上水道(玉川上水はこれに近いという)や武家地と町人地を分別せず給水する混在型の上水道が出てくるようになる。

神田上水がいつ竣工したかについての特定は難しいが、寛永年間には完成していたであろうといわれている。

その後、神田上水は給水量を増やすために助水が行われて、前述の『東京通誌』に見えるような流路となった。『御府内上水在絶略記』に玉川上水から助水を受けたのが1667年寛文7)と記されている[15]享保期には妙正寺川も取り込み、助水水源を増やしていった。


注釈

  1. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P44 - 45に『校註天正日記』は信濃国高遠藩内藤家が所蔵していた旧本を、栗原信充が影写し、小宮山綏介が校註を施したとされている。しかし、以前から偽書であるといわれていたので『東京市史稿 水道篇第一』の編者が内藤家及び栗原信充の子孫を尋ねたところ影写本の所在は判明しなかった。同書では『校註天正日記』はたとえ偽書であったとしても、全く信用できないとはいえず、何らかの根拠があるものとしている。
  2. ^ 『江戸名所図会』では承応年間(1652-1655)としている[7]
  3. ^ 「御茶ノ水」の湧水は御殿山台地の地下水が湧き出たもので、水が豊富だったころは1日に35000トンほど湧き出ていたというが、1955年昭和30年)ごろには水量が減り、ほぼ枯れてしまった。現在は井戸水をポンプで汲み上げて水を補充している。
  4. ^ 御茶ノ水の懸樋はかつて吉祥寺橋と呼ばれていた。橋の北側に吉祥寺があったためである。明暦の大火後、吉祥寺は駒込に移転してしまい、更に水道の懸樋があったためにいつしか水道橋と呼ばれるようになった。水道の懸樋が失われた今も地名として残っている。

出典

  1. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P43
  2. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P19 - 21
  3. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P47 - 48
  4. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P28
  5. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P56 - 57
  6. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P22 - 26
  7. ^ 江戸名所図会 1927, p. 598.
  8. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P59 - 61
  9. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P62 - 63
  10. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P25
  11. ^ a b 新編武蔵風土記稿 関口町在方分.
  12. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P38 - 40
  13. ^ 大日本地誌大系 第1巻 御府内備考, pp. 99–100.
  14. ^ 波多野純 「上水から見た江戸の都市設計」『江戸東京学への招待〔2〕都市誌篇』 P141 - 146
  15. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P225
  16. ^ 坂田正次 『江戸東京の神田川』 P87 - 88
  17. ^ 『上水記』 P4
  18. ^ 坂田正次 『江戸東京の神田川』 P90
  19. ^ 堀越正雄 『増補版 日本の上水』 P159
  20. ^ 『上水記』 P65 - 66
  21. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P174 - 178
  22. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P186 - 188
  23. ^ 坂誥智美 『江戸城下町における「水」支配』 P22
  24. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 222 - 223ページ
  25. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 242ページ
  26. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 193 - 198ページ
  27. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 225 - 236ページ
  28. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 204 - 205ページ
  29. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 272 - 273ページ
  30. ^ 近世史料研究会編 『正宝事録』第二巻 141ページ
  31. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 333ページ
  32. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 385 - 386ページ
  33. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 387 - 391ページ
  34. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 425 - 435ページ
  35. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 521 - 523ページ
  36. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 376ページ
  37. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 524 - 527ページ
  38. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 378ページ
  39. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 82 - 83ページ
  40. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 321ページ
  41. ^ 『上水記』45 - 46ページ
  42. ^ 『上水記』 47ページ
  43. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 129 - 130ページ
  44. ^ 『上水記』 P44
  45. ^ 『上水記』 P44
  46. ^ 『上水記』 P64
  47. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P688 - 689
  48. ^ 『上水記』 P64
  49. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 600–601.






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