森寅雄
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年表
- 1914年 群馬県桐生市で野間寅雄として生まれる。
- 1922年 野間清治に引き取られる。
- 1926年 東京府立第四中学校に入学後、2学期に巣鴨中学校へ転入。
- 1928年 剣道初段。
- 1929年 森家再興の為、森に改姓。
- 1929年 明治大学主催全国中等学校剣道大会優勝。
- 1930年 第1回全日本中等学校剣道大会優勝。
- 1930年 明治大学主催全国中等学校剣道大会優勝。
- 1931年 明治神宮体育大会中等学校優勝試合優勝。
- 1932年 報知新聞社入社。
- 1934年 天覧試合の東京予選決勝で野間恒に敗れる。
- 1934年 歩兵第15連隊、戦車第4連隊入隊。満州へ(1935年夏まで)。
- 1936年 剣道錬士六段。
- 1937年 剣道普及のため渡米。南カリフォルニア大学でフェンシングを学ぶ。
- 1938年 南カリフォルニアフェンシング選手権で優勝。全米フェンシング選手権で準優勝。
- 1938年 東京オリンピック出場準備の為帰国。
- 満州で戦車隊入営、同年除隊。剣道教士となる。
- 1940年 東京オリンピック中止。赤星貞子と結婚。
- 1941年 太平洋戦争開戦。
- 1945年 桐生に疎開、終戦。GHQ命令により剣道が禁止される。
- 明治大学でフェンシングを教える。
- 1947年 日本フェンシング協会設立、副会長に就任。
- 1948年 中央大学体育課講師となり翌年までフェンシングを指導。
- 1949年 渡米。
- 1950年 アメリカ西部地区フェンシング大会で全勝優勝。
- 1951年 南カリフォルニア剣道有段者会設立、理事に就任。
- 1951年 アメリカ西部地区フェンシング大会で全勝優勝。
- 1953年 日本で戦後から禁止されていた剣道が解禁。
- 1954年 大洋証券に入社。西ロサンゼルス剣道道場を創設。
- 1955年 アメリカ剣道連盟会長となる。剣道教士八段。
- 1956年 第1回日米親善剣道大会アメリカチーム監督として参加。
- 1960年 ローマオリンピックでアメリカフェンシングチームの代表監督を務める。ブラジルへ渡る。
- 1962年? 大洋証券退社、森証券設立。
- 1964年 東京オリンピックでアメリカフェンシングチームのコーチを務める。
- 1966年 Muriel Bowerと共著でフェンシングの指導書『FENCING』[3]を出版。
- 1967年 森証券を野村証券に売却。
- モリ・フェンシング・アカデミーを設立し後進の指導にあたる。
- ロサンゼルス市体育協会理事に就任。
- 1968年 メキシコシティーオリンピックでアメリカ代表コーチを務める。
- 1968年 ネッスル社の全米放映テレビCM撮影(死去した為放映無し)。
- 1969年 剣道の稽古中に心筋梗塞を起こし死去(54歳)。剣道範士の称号を追授される。
- 1970年 第1回世界剣道選手権大会が開催される。
- 2006年 南カリフォルニア剣道連盟が森杯剣道トーナメントを開催(3年に1回)。
- 2013年 国際フェンシング連盟(FIE)設立100周年記念の殿堂に唯一の日本人として入る[4]。
- ^ a b c 講談社の跡取り息子と「ターキーも惚れた」従弟「直接対決」の真相 - 現代ビジネス・2019年6月16日
- ^ 3代目社長となった左衛夫人が打ち出した大幅な経営改革とその余波 - 現代ビジネス・2019年8月4日
- ^ 『FENCING』 ISBN 0697070093 / 0-697-07009-3 ISBN 9780697070098
- ^ FIE HALL of Fame Mori, Torao
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