柳生宗矩
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評価
- 剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人[11]」「刀術者之鳳(おおとり)[12]」「父(石舟斎)にも勝れる上手[13]」「剣術古今独歩[14]」「剣術無双[15]」など様々に賞賛されている。また、新井白石や勝海舟なども自著にて賞賛している。
- 一剣士としてだけに留まらず、「活人剣」「大なる兵法」「無刀」「剣禅一致」などの概念を包括した新しい兵法思想を確立し、後世の武術・武道に大きな影響を与えた。その功績を讃え、平成15年(2003年)には宮本武蔵と並んで全日本剣道連盟の剣道殿堂(別格顕彰)に列せられている。この宗矩の思想をまとめた『兵法家伝書』は、『五輪書』と共に近世武道書の二大巨峰と評され、『葉隠』や新渡戸稲造著『武士道』など武道以外の分野の書物にも影響を与えている。
- 流派当主としては、新陰流(柳生新陰流)[注釈 8]を将軍家御流儀として確立し、当時最大の流派に育て上げた。これにより、当時多くの大名家が宗矩の門弟を指南役として召抱え、柳生新陰流は「天下一の柳生」と呼ばれるほどの隆盛を誇った[注釈 9]。
- 幕臣としては有能な官吏・為政者として辣腕を振るい、多くの大名家に恐れられ、また頼られた。伊達氏(伊達政宗)、鍋島氏(鍋島勝茂、鍋島元茂)、細川氏(細川忠興、細川忠利)、毛利氏(毛利秀就)などと親交があった。幕府初代惣目付として勤めていた際、細川忠興はその手紙で「(老中たちですら)大横目におじおそれ候」と記している。また惣目付としての働きの他、寛永11年(1634年)の家光上洛に際しては、事前の宿場検分役や帰りの道中修造奉行、寛永13年(1636年)の江戸城普請の際の普請奉行などもこなしている。
- 将軍・家光には若いころからの指南役として深い信頼を寄せられ、松平信綱、春日局と共に将軍を支える「鼎の脚」の一人として数えられた。肩書きは兵法指南役であったが剣を通じて禅や政治を説いたことで「家光の人間的成長を促した教育者」としても評価された。家光が長じた後も、沢庵と共に私的な相談を度々受けて、最後まで信頼され続け、見舞いの床においても兵法諮問に答えている[16]。また、家光も生涯、宗矩以外の兵法指南役を持たなかった[注釈 11]。
- 父親としては、子息4人のうち、長男・三厳(十兵衛)はその不行状から家光の不興を買い謹慎、三男・宗冬は成人まで剣の修行を厭うなど、子の教育について沢庵より忠告を受けている。「政治家・宗矩」と「剣士・十兵衛」の不仲・対立を描いた創作物がある一方で、三厳は著書で「祖父・石舟斎は流祖・信綱より新陰流を受け継ぎ信綱にまさり、父・宗矩は祖父の後を継いで祖父にまさる」としてその出藍の誉れをたたえている[17]。
注釈
- ^ ただし、柳生家が失領した時期については諸説あり、小田原征伐より後の文禄3年(1594年)に行われた太閤検地の際に、隠し田が露見した事によるものとする説もある[2]。
- ^ 渡辺一郎「兵法家伝書」では出典を「徳川実紀」とするが記載がない。永岡慶之助「柳生の剣と武蔵の剣」では「安藤治右衛門家書」に出典があるとする。
- ^ 立花宗茂の計策により、宗矩の諫言に感じ入って直盛は自害したという説がある[8]。
- ^ ただし、元々将軍や大名である人物が剣豪になった例(足利義輝、北畠具教、松浦清(静山)など)や、陪臣のため大名ではないが、宗矩以上の石高(1万3000石)を得ている富田重政などの例もある。
- ^ 寛永13年2月25日 小河九右衛門宛の沢庵書簡における宗矩について「上方よりの知音にて候。紫野(大徳寺)の昔から参徒にて、内縁ふかき人」とある。
- ^ 正確な日付は不明であるが、『徳川実紀』における沢庵推挙の由縁に従えば、寛永9年以前の事になる。
- ^ 寛永20年、正保2年とある[9]。
- ^ ここでいう新陰流は宗矩が宗家の「江戸柳生」のことで、柳生利厳(兵庫助)の「尾張柳生」のことではない。
- ^ 「天下一柳生、天下二小野」という記述あり[13]。また石州流の伝承によると「剣は柳生、絵は狩野、茶は石州」と称されたという。
- ^ 正保3年3月20日の家光見舞いの件り。
- ^ 現存する家光の兵法誓紙に宗矩宛以外のものは確認できない。
- ^ 元は禅語。宗矩以前の新陰流では相手を存分に動かして斬る等の意味で用いられていた。
- ^ この事から「心法の江戸柳生」と称されることもある(対比として「刀法の尾張柳生」がある)。
- ^ 『兵法家伝書』において、宗矩はこれを「平常心」と称し、目指すべき理想の心理状態としている。
- ^ 宗矩と同時代の軍学者・儒学者で一刀流を学んだ経験もある山鹿素行は『山鹿随筆』の中で「柳生但馬(宗矩)は、自身は長年の下学(修練)の末に剣術の妙理を会得したが、自分の弟子には(下学を疎かにして)妙理を極めた心を教えようとしたので門人にさほどの上手がでなかった」と評している。また細川忠興(三斎)も意図は不明ながら「新陰は柳生殿よりあしく也申候」と批判している。
- ^ 「中将(島津光久)元来門弟トシテ入魂ニヨリ」と記述あり。
- ^ ただし久世広之が大名になるのは宗矩死後の慶安元年である。
- ^ 御三家筆頭・尾張徳川家がないのは、尾張徳川家剣術指南を尾張柳生家が務めており、江戸柳生家と尾張柳生家は師弟関係ではないためである。
- ^ この他、伊達家には宗矩の甥(利厳の弟)、柳生権右衛門も仕えている。
- ^ ただし起倒流の成立の歴史には諸説あり。
- ^ 荒木又右衛門の新陰流入門の誓紙は仇討ち後の寛永12年10月24日のものであり、宛先も戸波又兵衛になっている。
- ^ この人物については「渡辺幸庵対話」において述べた自らの経歴と、「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」にある「渡辺茂」についての記述の間に矛盾が多く、そのため、宗矩の弟子という話も含め、経歴自体が偽証の可能性がある。詳細は渡辺幸庵の欄参照。
- ^ なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている。
- ^ この時、宗矩に直接手紙を出して相談するなど、かなり上府を渋っていたという[20]。
- ^ これについてはそういう風評があったというものであり、毛利家の記録によると、毛利秀就から進物を贈られた際、家光による倹約令もあって、これらを丁寧に断ったという記録がある[26]。
- ^ 実際にはこのころには家政は既に亡くなっており、大和高取2万5000石に封じられたのは息子の植村家次である。
- ^ また福永酔剣『日本刀大百科事典』「正家」や佐藤寒山『新・日本名刀100選』などにも記載がない。
- ^ 武蔵が将軍家指南役に誘われた際、柳生の下になることを嫌って自ら断り、宗矩の側も特に武蔵を推挙しなかった、という話が享保12年(1727年)に書かれた『丹治峯均筆記』にある。
- ^ 二天一流内の伝承ではないが、寛政ごろの随筆集『異説まちまち』に記述あり。
- ^ なお、寛永10年(1633年)2月の家光による1,000石以下の小姓番・書院番の番士全員への一律200石加増により、忠常の代に小野家は800石になっているため、加増がないということも史実に反している。
- ^ また別の説では家光の御前試合に参上するところが、家光の死によって沙汰止みとなったとされているが、その場合でも、既に宗矩は死去している。また、家光が死ぬ前の慰みとして、俗に「慶安御前試合」と称される兵法上覧が慶安4年(1651年)に開かれているが、ここの出場者の名に重明の名はない。
- ^ 一刀流内部の逸話で宗矩(及び柳生家)が引き合いに出されることが高いのは、同じ将軍家剣術指南役という地位にいるにもかかわらず、家格・名声において圧倒的に差がつけられ、「天下一柳生流、天下二の一刀流」(「日本剣道史」)などと称されたことが影響していると言われている。
- ^ この誓紙とされるものが示現流史料館にある。
- ^ 『正傳新陰流』では新次郎厳勝にも所領を分けて継がせたとあるが、石高的に計算が合わなくなる上、その場合、厳勝も直参として名が残る筈であるが、そのような記述はない。また、その嫡男である利厳が加藤清正のところへ仕官するのは不自然である。
- ^ 永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状。文中に「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する、上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」とする旨が記載されており、信綱が石舟斎を唯一の正統と認め、他の門弟にも教えていない技法を伝授した証とされる。
- ^ 永禄8年8月に宝蔵院胤栄に与えられた印可状には「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」と、「一国一人」にしか授けられていないはずの石舟斎の印可状とほぼ同様の内容が記されている。
- ^ 尾張柳生家にしか伝えられていないと考えられていた目録は全て、宗矩の長男三厳が著書『月の抄』の中であげた二百三十二項目中に含まれている[35]。
- ^ 『本朝武芸小伝』では宗矩を宗厳の「嗣子」とし、利厳は宗厳の子(宗矩の弟)としている。
- ^ 『撃剣叢談』では宗厳を開祖とする「柳生流」の跡を「二代目但馬守宗矩」としており、利厳についての記述はない。
- ^ 「無刀」については吉川英治の小説『宮本武蔵』、それを原作とした漫画『バガボンド』などの様々な創作物の影響もあり、一種の悟りの境地、あるいは平和主義的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で説かれている「無刀」は、「わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」とある通り、“刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視のものである。しかし反面、術だけを論じている訳でもなく、また、宗矩の父・石舟斎が自著「兵法百首」において『無刀にて きはまるならば 兵法者 こしのかたなは むよう成けり』と歌っていることも踏まえると、前述のイメージもまったく論拠のない創作という訳でもない。
- ^ それらの作品では“剣を権に変えた”“政を以って剣を歪めた”などと揶揄されることが多い。
出典
- ^ a b 今村 1967, p. 上66収録「玉栄拾遺(三)」
- ^ 今村 1994, p. 150.
- ^ a b 今村 1967, p. 上59収録「玉栄拾遺(二)」
- ^ 寛政重修諸家譜, p. 296.
- ^ 『東照宮御実紀付録』10巻
- ^ a b 徳川実紀, pp. 442–443
- ^ a b c 寛政重修諸家譜, p. 296
- ^ 『柳川史話(全)』P.348、古賀敏夫『立花宗茂』P.331
- ^ a b c d e 『玉栄拾遺』
- ^ 今村 1967, p. 上77収録「玉栄拾遺(三)」
- ^ 不動智神妙録
- ^ 本朝武芸小伝
- ^ a b c d 『撃剣叢談』
- ^ 『徳川実紀』正保3年5月28日
- ^ 家光よりの追悼時従四位下贈位書より。
- ^ 『玉栄拾遺』[注釈 10]
- ^ 『昔飛衛といふ者あり』
- ^ 佐藤錬太郎『禅の思想と剣術』(日本武道館、2008年) P283。
- ^ 『玉栄拾遺』[注釈 16]
- ^ a b c d e f g h 『沢庵和尚書簡集』
- ^ 『兵法家伝書』小城藩(小城鍋島家)版
- ^ 『直能公御年譜』
- ^ 『細川忠興書状』
- ^ 宮城県酒造協同組合『宮城の酒づくりの歴史』
- ^ 『政宗公治家記録引証記』
- ^ a b 『公議所日乗』
- ^ 寛永16年12月20日細川忠利から忠興宛の書状
- ^ a b 『異説まちまち』
- ^ 『秘剣埋火』戸部新十郎著 徳間書店 1998年 p196-197
- ^ a b 『明良洪範』
- ^ 『翁草』
- ^ 其阿彌秀文 (2016年9月1日). “講談 演目:柳生宗矩の大坂夏の陣七人斬”. 三原正家. 2019年3月16日閲覧。
- ^ 剣豪とフルーツの里錦町[1]2020年1月10日閲覧
- ^ 笹間良彦『図説日本武道辞典』柏書房、2003年
- ^ 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜―』(新人物往来社 、1994年2月1日)P182
- ^ 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜―』(新人物往来社 、1994年2月1日)
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