東本願寺 (台東区) 由緒

東本願寺 (台東区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/14 17:45 UTC 版)

由緒

開創

1651年慶安4年)、東本願寺第12世教如神田江戸御坊光瑞寺を建立したのを始まりとし、その後、京都東本願寺の掛所(別院)となった。

浅草移転

富嶽三十六景』「東都浅草本願寺」

1657年明暦3年)、明暦の大火により焼失し、浅草に移転。「浅草本願寺」・「浅草門跡」と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。その伽藍は、江戸後期の天保年間に出版された浮世絵師葛飾北斎の連作『富嶽三十六景』に「東都浅草本願寺」として描かれている。

1868年明治元年)には、渋沢成一郎天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により、大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成され、その拠点となった。

1875年(明治8年)、明治天皇の臨幸のもと、日本で最初に開かれた「地方官会議知事会議)」の議場に使用される。

1894年(明治27年)、日清戦争に際し俘虜収容所となり、清国捕虜179名を収容。僧侶・小栗栖香頂は、毎月彼らに中国語で説教した。

1914年大正3年)、第一次世界大戦に際し再び俘虜収容所となり、ドイツ捕虜計314名を収容。収容所長・西郷寅太郎。翌1915年(大正4年)、収容所は千葉県習志野に移転。

1923年(大正12年)9月1日、関東大震災により本堂等を焼失。

1939年昭和14年)、焼失した本堂を鉄筋コンクリート造りで再建する。

1945年(昭和20年)、空襲により本堂内部を焼失する[2]

1953年(昭和28年)、焼失した本堂内部を再建し、荘厳が整う。

真宗大谷派からの独立

1965年(昭和40年)5月に「浅草本願寺」から「東京本願寺」へと改称する[3]

1981年(昭和56年)6月15日に、東京本願寺は東京都知事の認証を得て独立し、真宗大谷派との包括関係を解消する。真宗大谷派からの独立・包括関係の解消は、お東騒動を発端とする。

1988年(昭和63年)2月29日に、東京本願寺と賛同寺院により「浄土真宗東本願寺派」が結成され、東京本願寺が本山と定められる[4]

2001年平成13年)4月26日に、現名称である「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」が文化庁より認証される[5]


  1. ^ 『宗教年鑑 平成29年版』(文化庁編、2017年12月31日発行)p.139,r.155
  2. ^ 本堂内部を焼失…鉄筋コンクリート造りであったため、本堂内部のみを焼失し、外郭の損壊は免れる。
  3. ^ 関東における歴史 - 東京本願寺へ改称
  4. ^ 東本願寺の法統 10 真の法統
  5. ^ 浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺 > 東本願寺の法統「11 法統伝承 -名称変更のお知らせ-」


「東本願寺 (台東区)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東本願寺 (台東区)」の関連用語

東本願寺 (台東区)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東本願寺 (台東区)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの東本願寺 (台東区) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS