三好英之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/04 06:00 UTC 版)
家族・親族
三好家
- (鳥取県米子市道笑町、東京都)
- 三好家は道笑町・日野町にわたって本家分家が広い間口を占めて、諸商売を営み土地への投資も行った[9]。米子近世の富商としての三好家は、阿波三好氏の一党である[9]。元亀・天正のころ河内・和泉のあたりに活躍した三好康長は河内高屋城主であった[9]。
- 横田村詮は三好の重臣であったが、三好氏が松永勢に攻められて滅亡後、豊臣秀吉の将中村一氏の家臣となり、一氏の妹を妻とした[9]。中村一忠が米子城主となり、慶長8年(1603年)老臣横田内膳村詮を暗殺した時、横田方に三好右衛門兵衛がいた[9]。これが阿波三好の流れである[9]。
- 中村家十八万石の執政家老横田内膳正村詮は三好一門、子がなかったので三好右衛門兵衛を養子とした[10]。米子へきた右衛門兵衛には左内、玄蕃の兄弟がいた[10]。しかし内膳正暗殺事件によって右衛門兵衛らは城内飯山にこもり一忠に反抗した[10]。その侍たちの横田党を指揮したのは、当然右衛門兵衛で、一党の生き残りは助命されたが、当時の法によって主将は切腹して部下の助命にかわるのは又当然である[10]。三好家にのこる古文書によると、切腹にあたり一門に帰農土着を訓えている[10]。右衛門兵衛は実名義紹とおもわれる[10]。内膳の事件後六年、中村一忠が急死したので、三好家の二人は米子に帰った[11]。だが左内、玄蕃の同一人であるかはたしかでない[11]。兄を久兵衛義信、弟を仁兵衛長政といい、兄は稲田氏と改めて農家になり四日市(福市)に土着し、弟は三好氏で商人になった[11]。これが道笑町・三好家の先祖であるという[11]。
- 伝承では仁兵衛長政が米子三好の先祖となっているが初代清心が寛文四年(一六六四)死去とすれば、義紹没後五十年、仁兵衛の子か孫となるわけである[12]。左内、玄蕃ともつながる可能性は大きい。米子城下の大通りしかも目ぬき通りに店をもち豪商郷士の誇りをもっていた三好氏は、中村家遺臣、大阪出身の第一級であったであろう[12]。
- 五代佐二郎の時文化5年(1808年)に藩の献金要請があり、全額銀700貫のうち300貫を三好が拠出しているから、当時の富力のほどがうかがわれる[13]。その前後三好家は分家が次第に増加したのは富の分配が可能であったからで砂糖・酢・紙類・古手類などと分家が軒を連ね、町内外に多くの土地・借家も持ち、在方での小作地の保有も増えた[13]。米子城代荒尾氏から20人扶持をあたえられていたということは、三好家が財力で藩財政に種々の貢献をしたことを物語る[13]。
- 父・常次郎[2]
- 母・フテ(天野大三郎長女[2])
- 弟・次一郎[2]
- 娘
親戚
注釈
出典
- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、25頁。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録. 4版』(大正4年)み九
- ^ 近代史を飾った 西部人物伝
- ^ 三好氏系譜(武家家伝)
- ^ 山田覆面子『囲碁太平記』(要書房)P.113
- ^ 『勝田ヶ丘の人物誌』48頁
- ^ 『岸信介傳』 151頁
- ^ 『岸信介傳』152頁
- ^ a b c d e f 『米子商業史』49頁
- ^ a b c d e f 佐々木謙著『伯耆米子城』116頁
- ^ a b c d 佐々木謙著『伯耆米子城』117頁
- ^ a b 佐々木謙著『伯耆米子城』41頁
- ^ a b c 『米子商業史』50頁
- ^ 『鳥取県人名録』より
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