ロシア正教会の歴史 ソ連:無神論政権による弾圧の時代

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ロシア正教会の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 04:58 UTC 版)

ソ連:無神論政権による弾圧の時代

左:ペトル・クルティツキイ府主教(1937年銃殺)、中央:ティーホン総主教1925年病没)、右:フェオドル・ポズデエフスキイ大主教(1937年銃殺)。1924年撮影。3人とも新致命者として列聖されている。

ロマノフ朝により庇護と統制の両方を受けつつ存続してきたロシア正教会は、20世紀初頭にも文化面での繁栄を19世紀に引き続いて継続する一方、先述の通り改革への志向を強めて教会の諸問題に対処しようとしていたが、20世紀前半に起きたロシア革命によって大きな打撃を蒙り、改革も頓挫することとなった。ロシア正教会側の対応は、ロシアに残って白軍に協力して共産主義勢力に抵抗する者や、ロシアに残って共産主義勢力に一定程度妥協する者、亡命する者、地下活動に移る者などに分かれたが、やがて共産主義に抵抗する者の多くは白軍とともに殲滅され、殺害されるか国外に亡命するかカタコンベ系諸正教会として地下で活動するかのいずれかに至った。

共産主義政権による弾圧の概要

レーニン統治時代の教会財産の接収。 Ivan Vladimirovロシア語版作。
レーニン統治時代の、革命派による裁判で死刑を宣告される聖職者と地主。 Ivan Vladimirovロシア語版作。
レーニン統治時代に強制労働に従事する聖職者。 Ivan Vladimirovロシア語版作。

1917年ロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。日本正教会の京都主教を務めていたことのあるペルミの聖アンドロニクは、生き埋めにされた上で銃殺されるという特異な致命を遂げたことで知られている。

レーニン統治時代の1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑されたが[41]、1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2千人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5千の司祭が銃殺もしくは投獄された[42]1937年1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された[43]

当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)は、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく制限された。政府の迫害を恐れ、多数の亡命者も出た。1927年のセルギー府主教によるソ連政権への「忠誠宣言」は反発を招き、カタコンベ系諸正教会が形成された。彼らは主流派正教会からは古儀式派と同じく分離派と蔑称された。カタコンベ系諸正教会の側はセルギー府主教の「忠誠宣言」を受け入れる主流派ロシア正教会を「セルギー派」と呼び非難した。この分裂は現在も継続している[44]

教会は文化面でも多大な弾圧を被った。当時最も活躍しており多作な聖歌作曲家の一人であったパーヴェル・チェスノコフも革命以降は聖歌作曲を禁じられ、同様に全ての音楽家が聖歌に関わることを禁止もしくは制限された。革命後、ソ連時代を通じてペレストロイカより前に聖歌の録音が許されたのは、セルゲイ・ラフマニノフの作品『徹夜祷』を世俗合唱団が録音した一回のみである。

爆破され崩れゆく、救世主ハリストス大聖堂

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂がダイナマイト爆破された。他にもクロンシュタットのイオアンが奉職していた聖アンドレイ大聖堂や、カザン・クレムリン(世界遺産)の生神女福音聖堂(ブラゴヴェシェンスキー聖堂・破壊は1930年)も破壊されている。

弾圧の度合いの濃淡

ソ連時代を通じてロシア正教会は過酷な弾圧の下にあったが、その度合いは一様ではなかった。先述したように腐敗していたロシア正教会につき、当初ボリシェヴィキ・ソ連政府は弾圧を加えればあっさり瓦解し消滅すると考えていたのだが、多数の致命者を出してもなお正教会の信仰が消滅しないことにみられた強固な信仰の存在という現実を目の当りにして、一定程度の宥和策をとる方向へ方針転換する必要が認められたからであった。ただし宥和策といってもあくまで相対的なものであって、教会が抑圧の対象であることには変わりなかった。

1943年のナチス・ドイツの侵攻に対してソ連人民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていた総主教の選出を認めた。この時選出されたのがセルギイ・ストラゴロツキー総主教である[注 21]。それまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

だがスターリンの死後、フルシチョフが再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。

このように、ソ連邦時代は確かに統制の程度に濃淡はあったものの、総じてロシア正教会にとっては受難の時代以外の何物でもなかった。神父は聖堂での奉神礼の中で行われるもの以外には説教を禁じられた。埋葬式の際にロシアに伝統的であった、聖歌隊と司祭が信徒達を先導して聖堂から墓地まで聖歌を歌いつつ永眠者の棺を運んで行進するという習慣などは勿論認められず、墓地における埋葬の際には司祭は祭服の着用を聖堂外では許されておらず、墓地において最後の祈りを捧げることも許されなかった。出版物には厳重な検閲が行われた。全ての宗教を弾圧するソ連にあって、計画経済の下で聖書や祈祷書・聖歌譜の印刷などに割り当てられる資材はごく僅かであり、聖職者や神学生達は限られた印刷物を使いまわしたり先人からのお下がりを貰い受けたりするなどして物理的不足をしのいだ。勿論当局に対する批判は許されず、スパイも活用した秘密警察によって一般社会と同様、教会は監視を受け続けた。

他方で、弾圧を緩和して信徒を守るため、ソ連当局に対して一定の協力を行った、あるいは強制された聖職者達がいたのは事実である。これには「やむをえない」面もありそのためにロシア正教会は存続することができたのは確かだが、同時に「当局との癒着」の疑義も生まれてしまうこととなった(事実、癒着していた聖職者もいた)。この疑義は現在に至るまでロシア正教会への不信感の源となっており、ロシア正教会自身にとっても解決の容易でない頭痛の種となっている。

ただし、このような弾圧時代においても一般の正教徒から抵抗が全く無かったわけではなく、ピアニストであるマリヤ・ユーディナのように、半ば公然と体制に対して正教徒としてのアイデンティティを表明し抵抗した者もいた。

弾圧・抑圧は、ペレストロイカ時代に至ってようやく緩和された。ミハイル・ゴルバチョフ書記長が信仰の自由を認める姿勢を打ち出し、1988年4月29日にロシア正教会のピメン総司教ら6人の指導者と会談した[46]。ソ連政府の最高指導者が教会指導者と会談したのは1943年以来のことで、ゴルバチョフは会談で、ソ連が過去に教会と信者に過ちをおかしたことを認めた[46]

亡命者達の動向

ヨーロッパ北アメリカ亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民が建てた各地のロシア系正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリニューヨークでロシア正教会の神学校が建ち、20世紀における神学研究の1つの中心となった。亡命後、第二次世界大戦時にユダヤ人を救済していたことでゲシュタポに連行されラーフェンスブリュック強制収容所致命した母マリヤが暮らしていたパリの家が、亡命した正教徒達の知的・神学的議論の中心的存在の一つともなっていたことも、フランス等に亡命した人々により信仰生活・知的活動が守られていたことの一例である。

亡命した著名なロシア人神学者・哲学者の中には、母マリヤの痛悔担当神父でもあったセルゲイ・ブルガーコフニコライ・ベルジャーエフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフらがいる。

現地にあった既存の正教会教区に拠る亡命者がいた一方で、新たな教会組織を設立・存続させていくグループも存在した。これを在外ロシア正教会(ROCOR、Russian Orthodox Church Outside Russia)と呼び、1922年にセルビアスレムスキ・カルロヴツィ(Sremski Karlovci: Сремски Карловци) に集った亡命ロシア人主教達によって設立された。在外ロシア正教会は1927年にソヴィエト政府に対する忠誠の誓約を要求した総主教代理代行セルギイ(・ストラゴロツキー)の総主教位継承を認めず、セルギイの後継者達に対しても長くその正統性を認めなかった。他方、さまざまな事情から亡命先の各地正教会とも若干の摩擦が起こり、その教会法上の立場の不安定性から、長く他の正教会との間に正常な関係が構築されないままとなった。


注釈

  1. ^ この時期(10世紀)は、東西教会の分裂の象徴的年代とされる1054年より以前のことであり、オリガは「正教会から洗礼を受けた」というよりは「キリスト教の洗礼を受けた」というべきだとする見解も有力である。しかしながら東西教会の分裂の始まりを800年カール大帝の戴冠に求める見解もあるのであり、そもそも東西教会の分裂は、年代を確定できるような事象ではなく、両教会は徐々に分離したものである(詳細は記事:東西教会の分裂を参照、参考となる文献…久松英二『ギリシア正教 東方の智』第二章「教会分裂の始まり」 講談社選書メチエ (2012/2/10) ISBN 9784062585255)。この時代、すでにコンスタンティノープル(コンスタンティノポリス、コンスタンディヌーポリ)の教会とローマの教会の溝は深まっており、オリガがコンスタンティノープル教会から洗礼を受けたことが、のちのルーシが正教会を導入する始まりとなったことは間違いない。したがって本項では折衷的記述として、オリガが受けた洗礼を「キリスト教正教会)」からのものと表現する。
  2. ^ 1988年に挙行された「ロシア正教千年祭」は、988年をロシア正教会の出発点とする考えに基づいている。
  3. ^ 「ルーシ」の語義を巡っては、「キエフ(ウクライナ読みでは「キイウ」)・ペレヤスラヴリなどが存在するドニエプル川中流域」という狭義の語義のみが主張される場合があるが、本稿では参考文献(三浦清美『ロシアの源流』p19 - p20, 講談社選書メチエ、2003年 ISBN 978-4-06-258274-2)に従い、「ルーシ」の語義を広義のものとして扱い、「東スラブ人のキリスト教(正教)的政治共同体とその影響領域の全体」とする。
  4. ^ ルーシにおける正教の初期の歴史はこのように現在のウクライナに該当する地域で展開していたために、「ロシア正教会」の歴史ではなく「ウクライナ正教会の歴史」として捉えるべきであってロシア正教会のそれと混同してはならないという議論も存在するが、本稿ではルーシからロシアへの連関性を一定程度認めた上で記述する。
  5. ^ 「余は命令する。首長、すなわち、ローマ教会から分離し、ギリシアの典礼にしたがってきたまさにその地において、ルーシの民がラテンの典礼を遵守するよう強制されるべきである、と」:ローマ教皇ホノリウス3世(1216-1227)による1222年の宣言(山内進『北の十字軍』講談社選書メチエ・1997年・178頁による)。教皇ホノリウス3世は正教への信仰を「傲慢」と「分派行為」であるとも決め付けた。なお「北方十字軍」はルーシにとどまるものではない。
  6. ^ 遷座(せんざ)…正教会における、主教座の移動のことをいう。
  7. ^ 『ニーコン年代記』は、イヴァン・カリターウズベク・ハンから勅許状を得てウラジーミル大公国に帰還した1328年から「大いなる平和(静寂)」(ロシア語: Великая Тишина)が40年間あったと伝えている。"Тишина"(ティシナー)は、「静寂」「平穏」「平静」を含意する。
  8. ^ ヘシュカスム:静寂主義についてはグレゴリオス・パラマスの項を参照。
  9. ^ 14世紀後半までリトアニア大公国はカトリック国家となっておらず、正教とカトリックの間で自らの態度を留保することによって外交を優位に進めることを目指し、一定の成果を挙げていた。しかしながらのちにポーランドと合同し正式にカトリック国となることで、それまで態度を保留していたことによって生まれていた多数の正教徒住民と大公国の軋轢が増し、これはリトアニア衰退の原因のひとつとなった。
  10. ^ イヴァン4世は非常に複雑な性格の持ち主であってその実像は今なお謎に包まれている。詳細はイヴァン4世の項を参照。
  11. ^ 「痛悔」(つうかい)。正教会の訳語。カトリック教会の「告解」に相当するが、正教会にあっての「痛悔」は「告白」を重視するものではなく、行動を改めていくことを重視する傾向が強い。したがってこの場合、府主教フィリップが「痛悔をするよう迫った」というのは、単に「罪を告白せよ」と言ったに留まらない意味を持つ。フィリップは皇帝に文字通り、軌道修正をするよう説得したのである。
  12. ^ 総主教イェレミアス2世は、ルター派からの接触を最初期に持ったコンスタンティノープル総主教として有名である。ルター派の聖職者達はアウクスブルク信仰告白をコンスタンティノープル総主教庁に送付し、以降1576年から1581年にかけて両者の間で書簡が往復した。この書簡中でイェレミアス2世は正教会における「宗教改革」の必要性を明確に否定した。
  13. ^ 17世紀から19世紀までの正教会の西欧化を、ロシア・ウクライナ等の東スラヴ地域のみに限定するかのような認識は誤りである。東地中海においても正教会は欧化の波にさらされていた。本文で後述の通り、東地中海地域の聖職者達はオスマン帝国の下で伝統的な神学教育を受けることが許されず、西欧のローマカトリック系の大学に赴いてラテン語で教育を受ける他に高度な神学知識を獲得する方法がなかったからである。
  14. ^ 正教会では夫婦が同時に別々の修道院に入ることができるが、この例外的な規定を利用し、強力なライヴァルであったロマノフ家当主であるフョードルに対し、夫婦それぞれ修道士になることを強要したのがボリス・ゴドゥノフであった。この時、フョードル・ロマノフは修道士となり、修道名「フィラレート」を与えられた。フョードル夫妻にはすでに子がおり、これがミハイルである。このミハイルがツァーリになったことから、総主教とツァーリが親子であるという歴史上非常に珍しい事態が生じた。
  15. ^ 宗教改革も参照。本記事作成について使っている主要参考文献をはじめ正教会関係者および正教会・ロシア史の専門的な研究者の間では、ニーコン改革を「宗教改革」と呼んでいるケースは皆無である。後述の通り、西欧における宗教改革とニーコン改革とでは、あまりにも内実が異なるからであり、そもそも同じ語を使うという発想が絶無である。
  16. ^ キリロス・ルカリスは若くしてウクライナにおいて目の当りにしたカトリック教会のやり方に対し死ぬまで反感を抱き、正教会の立場を確立しようと努力した。のち30歳にしてアレクサンドリア総主教、さらには48歳の時にコンスタンティノープル総主教となる。彼のこうした思想性と熱血漢としての性質はオスマン帝国からも危険視され、最後には刺客によって絞殺されボスフォラス海峡に投げ入れられた。
  17. ^ 当時流布していた形式の尊重は、表面的な誤魔化しのレベルにとどまるものではなかった。夫婦で自室で行う毎日の就寝前の祈りにおいても、イスス・ハリストス(イエス・キリスト)に600回の祈り、生神女マリヤに100回の祈り、さらに300回の伏拝(起立姿勢からいわゆる土下座をし、また起立する方式)を、リーダーである長司祭アヴァクームとその妻が行っていたこと、そしてそれは決して珍しい物ではなかったことにもみられる通り、その形式主義は正に筋金入りのものである。それだけにそうした伝統を大事にする者達を翻意させるのは容易ではなかった。
  18. ^ F.プロコポーヴィチ…ポーランドのクラクフ、ローマ、フィレンツェに学び、カトリックに改宗したものの帰国後また正教会に戻った。1716年にピョートルから宗務規定作成のために首都に招聘された。
  19. ^ 正教会からのピョートル1世に対する評価は、【高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫】、【オリヴィエ・クレマン(訳:冷牟田修二)『東方正教会』白水社 文庫クセジュ】によく示されている。というよりも、ピョートル1世に好意的な正教会関係の文献は皆無である。
  20. ^ 精確に言えば、ベーリュスチンは著書を発行するつもりはなかったのだが、本書を受け取った人物が勝手にライプツィヒパリで出版し、それが検閲の厳しいロシアに逆輸入されて地下で流通していったものである。
  21. ^ セルギイ・ストラゴロツキーには日本の正教会を牧会した経験がある。北海道を巡回した際の著作には邦訳もある[45]。なお日本に正教会を伝道したニコライ大主教の後継者であるセルギイ・チホミーロフ府主教とは別人。
  22. ^ ちなみにコンスタンティノープル総主教はローマ教皇の訪問を受け入れるなど、比較的カトリックに対して融和的である。ただし、管轄下にあるアトス山の修道院の中には、こうしたコンスタンティノープル総主教の「西側」への融和的姿勢に激しく反発しているものもあり、コンスタンティノープル総主教管轄下の全ての教会・修道院が「親西方教会」で一枚岩である訳ではない。西方教会に比較的融和的なルーマニア正教会のダニエル総主教と、ルーマニア正教会についても、同じことが言える。

出典

  1. ^ この項の主要参考箇所:黒川知文『ロシア・キリスト教史』42頁(教文館、1999年初版)
  2. ^ a b The Holy Apostle Andrew the First-Called (Pervozvyannii)
  3. ^ 『諸聖略伝 十二月』71頁、日本ハリストス正教会府主教庁 (2004年1月発行)
  4. ^ The PriestMartyr Clement, Pope of Rome
  5. ^ The Monk John, Bishop of the Goths
  6. ^ 高橋保行 (1980, p. 123)
  7. ^ 高橋保行 (1980, p. 124)
  8. ^ 高橋保行 (1980, p. 126)
  9. ^ 三浦清美 (2003, p. 34)
  10. ^ Christianity and the Eastern Slavs Vol. I: Slavic Cultures in the Middle Ages p113, Edited by Boris Gasparov, Olga Raevsky-Hughes ISBN 9780520079458
  11. ^ Kyiv-Pechersk Lavra
  12. ^ a b c 三浦清美 (2003, p. 24)
  13. ^ a b 三浦清美 (2003, p. 28)
  14. ^ a b 三浦清美 (2003, pp. 29–30)
  15. ^ 山内進 (1997, p. 179)
  16. ^ 山内進 (1997, pp. 181–185)
  17. ^ 三浦清美 (2003, p. 31)
  18. ^ 廣岡正久 (1993, p. 62)
  19. ^ N. ゼルノーフ、宮本 (1991, p. 37)
  20. ^ 三浦清美 (2003, pp. 32–33)
  21. ^ N. ゼルノーフ、宮本 (1991, p. 31)
  22. ^ 三浦清美 (2003, p. 110)
  23. ^ ТВЕРСКАЯ ЛЕТОПИСЬ→ЧАСТЬ 1 (ЛЕТОПИСНЫЙ СБОРНИК, ИМЕНУЕМЫЙ ТВЕРСКОЮ ЛЕТОПИСЬЮ)
  24. ^ Глава III - Житие и подвиги преподобного и богоносного отца нашего Сергия
  25. ^ a b 三浦清美 (2003, p. 145)
  26. ^ クレマン、冷牟田 (1977, p. 25)
  27. ^ 高橋保行 (1980, p. 134)
  28. ^ 三浦清美 (2003, p. 148)
  29. ^ 三浦(2003: 150 - 152)
  30. ^ 全ロシアの奇蹟者府主教・聖アレクセイの生涯
  31. ^ 参考図書:栗生沢猛夫・土肥恒之(以上2人が該当項目第4章第5章の執筆者)『ロシア史』(編:和田春樹)山川出版社
  32. ^ Hieromartyr Hermogenes the Patriarch of Moscow and Wonderworker of All Russia
  33. ^ a b 術語出典:『ギリシャ正教』講談社学術文庫、87頁~89頁 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002)
  34. ^ I.S.ベーリュスチン著/白石治朗訳『十九世紀ロシア農村司祭の生活-付 近代ロシアの国家と教会-』中央大学出版部 1999 年、163頁
  35. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, pp. 236–237)
  36. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, pp. 223–224)
  37. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, p. 156)
  38. ^ コワリョフ、ウサミ (1991, p. 146)
  39. ^ 本節の主要参考文献:高橋保行『迫害下のロシア正教会 無神論国家における正教の70年』教文館、1996年、ISBN 4764263254
  40. ^ 出典:イラリオン・アルフェエフ著、ニコライ高松光一訳『信仰の機密』88頁、東京復活大聖堂教会、2004年
  41. ^ 高橋保行 1996, p. 83.
  42. ^ 高橋保行 1996, p. 125.
  43. ^ 高橋保行 1996, p. 126.
  44. ^ 藤原潤子「現代ロシアにおける宗教的求道と「歴史」の選択 : カタコンベ正教会のネオ旧教徒たち」『宗教と社会』第14号、「宗教と社会」学会、2008年6月14日、45-68頁、NAID 110007652982 
  45. ^ 宮田洋子訳『掌院セルギイ 北海道巡回記』キリシタン文化研究会/1972
  46. ^ a b 森本良男『ソビエトとロシア』、講談社現代新書、1989年、117ページ
  47. ^ 川又(2004: 180 - 182)
  48. ^ "The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity" Wiley-Blackwell; New edition (2001/12/5), p160 - p161, ISBN 9780631232032
  49. ^ 参考記事:Interfax 5月17日報道
  50. ^ 川又(2004: 173 - 180)
  51. ^ 参考記事:世界キリスト教情報 2006/12/11号
  52. ^ ウクライナの独立教会を承認、コンスタンティノープル ロシア反発”. 日本経済新聞 (2018年10月12日). 2021年8月18日閲覧。
  53. ^ ウクライナ正教会、ロシアから独立した新教会を設立へ”. AFP (2018年12月16日). 2021年8月18日閲覧。
  54. ^ ロシア正教会が総主教庁との関係断絶 ウクライナ正教会独立めぐり”. www.afpbb.com (2018年10月16日). 2021年8月18日閲覧。
  55. ^ ロシア正教会が「コンスタンチノープル総主教庁」と断絶 日本正教会も続く”. キリスト新聞 (2018年10月23日). 2021年8月18日閲覧。
  56. ^ Японская православная церковь будет следовать решению РПЦ”. vz.ru (2018年10月18日). 2021年8月18日閲覧。





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