クリコヴォの戦いと、モスクワ大公国の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)
「ロシア正教会の歴史」の記事における「クリコヴォの戦いと、モスクワ大公国の台頭」の解説
1380年、モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイ率いるルーシ諸公連合軍は、クリコヴォの戦いでジョチ・ウルスのママイ・ハン軍を破った。この戦いの前にラドネジのセルギイは大公ドミトリイ・ドンスコイに対して祝福を与えている。一般にはこの1380年を以てルーシは「タタールのくびき」から解放されたとされることが多い。 依然としてジョチ・ウルスないしその後継ハン国(クリム・ハン国など)の軍事的脅威はその後も15世紀までルーシの諸都市が幾度も略奪に遭っていることからも判る通り持続しており、17世紀末に至るまで軍事的脅威は残存していた。モスクワの人々が「ウラジーミルの生神女」のイコンを用いて祈ったことでティムールの軍がモスクワから退いていったとされる伝承からも、遊牧国家がルーシ諸公にとり依然として脅威であったことが判る。 しかしクリコヴォの戦いが一つのきっかけとはなり、モスクワ大公国が名実ともにルーシの第一人者となっていくこととなる。ただしこの頃のルーシの統合はまだ緩やかなものであった。
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