クリコヴォの敗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 06:37 UTC 版)
「ママイ (キヤト部)」の記事における「クリコヴォの敗戦」の解説
「クリコヴォの戦い」も参照 ベルディ・ベク死後の長期の内乱によって、ジョチ・ウルスはルーシ諸侯に対して組織的に介入する力を失い、ルーシ側もヴォルガ川に沿ってモンゴルの軍隊をしばしば攻撃した。1373年ごろにモスクワ大公国はジョチ・ウルスへの貢納を停止し、ママイはリトアニア大公ヨガイラ、リャザン公オレーグと同盟してモスクワの圧迫を企てた。ママイは有力な同盟者であるトヴェリ大公ミハイルをウラジーミル大公に任じようとするが、ウラジーミル市民の抵抗とモスクワの攻撃によって失敗する。 1377年にモスクワはスーズダリの軍隊と共にジョチ・ウルスの臣従国であるヴォルガ・ブルガールを攻撃し、翌1378年にヴォジャ河畔の戦いでママイが派遣した将軍ベギチの率いる軍隊を破った。1380年にママイはモスクワ討伐の軍隊を動員、同年9月8日のクリコヴォの戦いでママイはモスクワ公ドミートリーが率いるルーシ諸侯の連合軍に敗れる。 敗戦後、モスクワは戦争の準備に多大な費用を支払ったために追撃に出ることができず、ママイはドミートリーを服従させるために再戦の兵力をかき集める。しかし、ハン国内部の敵対者であるトクタミシュにカルカ河畔の戦いで打ち破られ、本拠地のクリミアに退却した。ママイはジェノヴァ人が居住するカッファに逃れるが、彼の財産を狙ったジェノヴァ人によって殺害されたとされる。16世紀にヒヴァで書かれた史料には、ママイはトクタミシュによって捕殺されたとも記録されている。 ママイの死後、彼に従属していた遊牧民は次代のハンであるトクタミシュに帰順し、ジョチ・ウルスが再統一される道を切り開いた。イヴァン4世の母エレナ・グリンスカヤの生家グリンスキー家はママイの子孫を自称しており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いの勝者と敗者双方の血を引いている。
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