アール・ヌーヴォー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/11 15:19 UTC 版)
各国でのアール・ヌーヴォーと主要人物
フランス、ベルギーがアール・ヌーヴォーの中心地であったが、同様の新しい芸術様式はヨーロッパ各地やアメリカ合衆国でも花開いた。イギリス、チェコ、イタリアその他の国々にもアール・ヌーヴォー様式の鉄道駅、ホテルの建物などが残っている。
フランス
パリでは1895年にサミュエル・ビングがアール・ヌーヴォーの画廊を開き、1900年にはパリ万国博覧会が催され、地下鉄駅出入口やカステル・ベランジェで知られるエクトール・ギマールのほか、ガラス工芸家のルネ・ラリック(ラリックの活動期間は長く、アール・デコの時代に及ぶ)、建築家ユジェーヌ・ガイヤール、金物師エドガー・ウィリアム・ブラント(兵器開発者でもあった)、画家ポール・ベルトン、アルフォンス・ミュシャ、ウジェーヌ・グラッセなどの重要人物たちの活動の場となった。
しかしながら、最もまとまったグループを形成したのはナンシー派であり、ガラス工芸家のドーム兄弟、エミール・ガレ、ジャック・グリューバー、家具師ルイ・マジョレル、建築家ウジェーヌ・ヴァラン、 オクターヴ・ゲラン、彫刻家アントナン・バルテルミなど数多くの人物を輩出した。
ベルギー
ベルギーでは、ヴィクトール・オルタが最初のアール・ヌーヴォー建築を建設し、ポール・アンカール、エルネスト・ブルロ、ポール・コーシー、ギュスターヴ・ストローヴァン、ポール・サントノイ、レオン・ドリュヌ、フィリップ・ウォルハーズ、ジュール・ブリュンフォー、Gabriel van Dievoet[訳語疑問点]、ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィ、ヴィクトル・ルソーなど数多くのアール・ヌーヴォー建築家・芸術家を輩出した。運動のオピニオンリーダーであったアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデはドイツでその芸術を発展させた。
オルタのタッセル邸やソルヴェー邸は「建築家ヴィクトル・オルタの主な都市邸宅群 (ブリュッセル)」の名で世界遺産となっている。
イギリス
イギリスはアール・ヌーヴォーの起源であり、詩人・デザイナーのウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動がアール・ヌーヴォーの先駆けとなり、工芸家たちと、ギルド・オブ・ハンディクラフトを設立した建築家、工芸家のチャールズ・ロバート・アシュビーや、アメリカのイラストレーターのウィル・H・ブラッドリー(Will H.Bradley)らに受け継がれた。
後には、グラスゴーでチャールズ・レニー・マッキントッシュとその妻マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ、マーガレットの妹フランセス・マクドナルド、ハーバート・マックニーの「4人組」(The Four)が「グラスゴー派」を形成した。オーブリー・ビアズリーによるオスカー・ワイルド『サロメ』の挿絵はアール・ヌーヴォーのイラストレーションの代表格である。
ドイツ・オーストリア
特にドイツ語圏のものをユーゲント・シュティール(青春様式)という。
オーストリアでは1897年にウィーン分離派(ゼツェッシオン)が旗揚げし、総合的な芸術運動を目指した。代表的芸術家は、ウィーン分離派の中心人物であった建築家のオットー・ワーグナー、ヨゼフ・マリア・オルブリッヒや画家のグスタフ・クリムトなど。
ドイツでは建築家のアウグスト・エンデル、彫刻家のヘルマン・オブリストなどを中心にミュンヘン、ベルリン、ダルムシュタットでユーゲント・シュティールが展開された。
その他の欧米諸国
スペインのものをモデルニスモ(モダニズム)などと呼ぶ。特にバルセロナを中心に、アントニ・ガウディのほかドメネク・イ・モンタネル、プッチ・イ・カダファルク、ジュゼップ・マリア・ジュジョールなどの建築家がいる。
オランダでは画家ヤン・トーロップと建築家ヘンドリック・ペトルス・ベルラーへがいる。
イタリアでは「スティレ・リベルティ」と呼ばれ、いずれも建築家のエルネスト・バジーレ、ライモンド・ダロンコ、ジュゼッペ・ソマルーガ、カルロ・ブガッティ、ジュゼッペ・ブレガが活躍した。
スイスにおいてはシャルル・レプラトニエがスティル・サパンを創始し、ル・コルビュジエらが影響を受けた。
北欧ではノルウェーでエドヴァルド・ムンクがアール・ヌーヴォー絵画を残しているほか、オーレスンがユーゲント・シュティール建築で知られている。フィンランドには建築家エリエル・サーリネンがいた。
チェコのプラハ本駅は高名なアール・ヌーヴォー建築である。アルフォンス・ミュシャはパリで活躍したが、出身はチェコであり、名前も本来の発音は「ムハ」に近い。
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ヤン・トーロップ『3人の花嫁』(1893)
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プラハ本駅のホール
ハンガリーの建築家レヒネル・エデンにはブダペストの応用美術館、郵便貯金局などの作品がある。
ラトビアのリガは数多くのアール・ヌーヴォー建築で知られている。リガとロシアのペトログラード(現サンクトペテルブルク)で、建築家のミハイル・エイゼンシュテイン(映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテインの父)が活躍した。
アメリカ合衆国ではシカゴの建築家ルイス・サリヴァンや、ニューヨークの宝飾デザイナー・ガラス工芸家ルイス・カムフォート・ティファニーが活躍した。
日本
日本の木版画(浮世絵)、とりわけ葛飾北斎の諸作品はアール・ヌーヴォーの語彙の形成に強い影響を及ぼした。1880年代から1890年代にかけてヨーロッパを席巻したジャポニスムはその有機的なフォルム、自然界の参照、当時支配的だった趣味とは対照的なすっきりしたデザインなどで多くの芸術家に大きな影響を与えた。エミール・ガレやジェームズ・マクニール・ホイッスラーといった芸術家が直接取り入れたのみならず、日本に着想を得た芸術やデザインはサミュエル・ビング(パリ)やアーサー・ラセンビー・リバティ(ロンドン)といった商人たちの店によって後押しされた。ビングはアール・ヌーヴォーの店を開く前は日本美術の専門店を経営しており、1888年からは『芸術的日本』(La Japon Artistique)誌を発行してジャポニスムを広めた。
日本美術から刺激を受けたアール・ヌーヴォーは逆輸入の形で日本にも影響を与えた。夏目漱石の『猫』など一連の本の装幀(橋口五葉)、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』・雑誌『明星』の表紙(藤島武二)や杉浦非水のポスターなどに直接的な影響が見られる。高畠華宵の出世作となった「中将湯」広告にはビアズリーの影響が指摘されている。インテリアでは、北九州市の旧松本健次郎邸(現西日本工業倶楽部)の内装(1912年ごろ、辰野金吾設計)にアール・ヌーヴォーの影響が指摘される。
- ^ [1] 2024年2月13日閲覧
- ^ 上田篤、田端修『路地研究 もうひとつの都市の広場』鹿島出版会、2013年、182頁。ISBN 978-4-306-09423-9。
- ^ 谷克二『ブリュッセル歴史散歩 中世から続くヨーロッパの十字路』日経BP企画、2009年、219頁。ISBN 978-4-86130-422-4。
- ^ 『世界の美しい階段』エクスナレッジ、2015年、134頁。ISBN 978-4-7678-2042-2。
- 1 アール・ヌーヴォーとは
- 2 アール・ヌーヴォーの概要
- 3 歴史
- 4 家具調度
- 5 宝飾
- 6 絵画
- 7 各国でのアール・ヌーヴォーと主要人物
- 8 洋書
- 9 関連項目
- 10 外部リンク
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